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イッセイエッセイ

1137号 レーヴィット「ヘーゲルからニーチェへ(上)」―19世紀思想における革命的断絶(後半部)

2016年04月09日(土)

 以下上巻の後半部。
 上巻全体は著書の第一部に相当する「十九世紀における精神の歴史」を扱っている。上巻の最終章・最終節においては「ヘーゲルとゲーテにおける時間と歴史」をテーマにしている。つまりここでは、序章の「ゲーテとヘーゲル」の議論に再び回帰する形でのまとめを行っているように見える。
 第一部のその間にある途中各章では、老年ヘーゲル派、青年ヘーゲル派、新ヘーゲル派の人たち(命名法もドイツ的で、分類的、系統的で面白い。「青年ヘーゲル派」は昔から聞いた名)、そしてその中でもラジカル派としてのマルクスとキルケゴールの哲学がくわしく論じられ、最後にはニーチェを登場させ、彼のヘーゲルに対する評価とニヒリズムの克服という問題を論じている。その後にこのゲーテとヘーゲルを再び扱った最終章となる。
 まず、ヘーゲルに対する批判派(青年ヘーゲル派が中心)の見解についての著者の評価から。
 「彼らの書いたものを読むと、激越な調子にもかかわらず、味気なさが残る。乏しい手段で際限もない自説を言い張るだけで、概念に即したヘーゲルの弁証法を、くどくど述べ散らかすための文章のレトリックにしてしまっている。対立的にひねった彼らの文章の調子は、単調でありながら、明確でない。雄弁だが、光らない。世界は1830年以降、「下品」になりはじめたとブルクハルトは言ったが、「下品」というこの彼の形容は、頻用されはじめた言葉使いにも、はっきり見ることができる。つまり、激越な論争的調子、悲愴な大言壮語、ドラスティックな比喩の使い方を楽しむ文章の調子が広がり出した。フリードリヒ・リストもそのひとつの例である。」(同書第2章「老年ヘーゲル派、青年ヘーゲル派、新ヘーゲル派」164―165頁)
 日本の1960年代には以上のような記述と、以下のような議論を推測できるような関係の本がたくさん店頭にあったが、いまはほとんどどこにも見当たらない。過激な言葉はすべて学生運動に流れ込み、それがまた行動に行き着いて消えてしまった。
 数日前のことであるが、小津安二郎の「晩春」(昭和24年)というTV映画を途中まで見た。原節子(娘)の父親(笠智衆)は学者であり、書斎で編集者と校正をしているシーンがある。経済学者のリストの綴字は音楽家のリストとは違うのではないかと話しているのである(映画論にとっては面白いせりふである)。
 「彼ら相互の関係を見ると、特徴的なのは、おたがいに相手よりも強いことを言おうとし、相互につぶしあう関係になっていることである。彼らは、時代が彼らに提示している問題を先鋭化し、恐ろしいほどに論理的徹底性を貫く。ともに反体制という点でつながっているだけなので、個人的なつながりや文学的な同盟関係は、結びつくのと同じに簡単に解消し、すぐに分裂し、自分たちのラディカリズムに応じて、おたがいに<俗物>呼ばわり、<反動>呼ばわりしあっていた。フォイエルバッハとルーゲ、ルーゲとマルクス、マルクスとバウアー、そしてバウアーとシュティルナー、このそれぞれのペアは憎しみ合う兄弟のようなもので、どの瞬間からおたがいに敵視しあうようになるかを決めるのは、偶然のみであった。彼らは、『脱線した教養人』なのだ。」(同章165頁)
 彼らは、「逆立ちしているヘーゲル哲学」と言いならわして、正しい世界認識へと上下がさかさまに逆転させるべきと主張した。この風潮が当時を一世風靡したところの考えであった。観念であれ経済であれ上部にしろ下部の構造にしろ、どちらを上にしても下にしても議論としては通用する図式であったのだが。しかるにそのため、当時の若者は思考が単純化し基本教養がほとんど身につかないままに終ってしまい、また再びの学習を必要としたのである。
 「ヘーゲル学派がヘーゲル右派と左派に分裂した思想上の理由は、ヘーゲルの弁証法における<止揚>の概念の根本的両義性だった。この概念は、保守的なものと見ることも可能だし、革命的なものと解釈することもできた。ヘーゲルの方法を<抽象的>に一面化して受け取るだけで、ヘーゲル左派全員にあてはまるフリードリヒ・エンゲルスの次のような文章となる。『この見方の保守主義は相対的なものであるが、これがもつ革命的性格は絶対的なものである』。なぜならば、世界史のプロセスは、進歩の運動であり、それゆえ現存するもののたえざる否定だから、というのである。『現実的なものは理性的でもある』とするヘーゲルの命題がいかに革命的であるかをエンゲルスは論証する。彼に言わせれば、たしかにこの命題は見かけの上では反動的だが、本当のところは、革命的なのだ。なぜなら、『現実』ということばでヘーゲルは、目下偶然的に存在する社会のあり方を考えているのではなく、『真なる』かつ『必然的な』ありかたを意味していたのだから、というわけだ。」(同章171―172頁)
 結局のところマルクス主義が、20世紀前半から後半にかけて、現実の国家建設のイデオロギーとして世界に影響を与えたが、一世紀を経ずして破綻してしまった歴史的結末にその理由を歴史的に追及せず疑問を発しないのは現代の不思議である。

 「ヘーゲル哲学の転覆にあっては、三つの局面に分けることができる。まず第一はフォイエルバッハとルーゲである。彼らは、ヘーゲル哲学を、変化した新たな時代の精神に即して変革・・しようとした。その次はブルーノ・バウアーとシュティルナーである。彼らは、およそ哲学なるものを、ラディカルな批判主義とニヒリズムのうちで消滅・・させようとした。最後はマルクスとキルケゴールである。彼らは、変貌した新たな状況から極端な帰結・・・・・を引き出した。つまり、マルクスは市民的=資本主義的世界を、キルケゴールは、市民的=キリスト教的世界を解体したのである。」(同章174頁)
 「『ペシミズム』と『オプティミズム』こそは、時代のキーワードとなった。『ペシミズム』は、あきらめと不快感に相応し、『オプティミズム』は、よりよき時代への希望に対応していた。その際に『貧困の哲学』が、経済的な(ブルードン)生活の悲惨に由来するのか、あるいは、一般的人間的な(ショーペンハウアー)悲惨によるのか、それともキリスト教的な意味での精神的な(キルケゴール)悲惨のせいなのか、そうしたことはあまり原則的な相違ではない。また、貧困の哲学を強調するか、『哲学の貧困』(マルクス)を重視するかどうかも、大きな違いではない。さらには、『人生の苦悩』をキリスト教的に(キルケゴール)解釈したか、または『仏教的』(ショーペンハウアー)観点から解き明かしたかも、そして人生の没価値性(バーンゼン)を唱えたか、あるいは『人生の価値』(デューリング)を論じたか、さらには人生の価値は評価可能(E・v・ハルトマン)としたか、または『かぎりなく価値がある』(ニーチェ)としたかも、それほど大きな相違ではない。これらのいっさいの現れ方に共通しているのは、人生[現存在]がそれ自身として問題視されるようになったことである。」(同章284―285頁)
 こうしたドイツ流の余裕に欠ける思弁的傾向に関して、ポーランドのアウグスト・チェシュコフスキー伯爵(1814―1894年)は、―彼自身もヘーゲル主義とほとんど区別できない哲学者であったが―ドイツの大学で学んだ経験からドイツ人から受けた特異な印象を次のように書いている。
 「(ドイツ人は)『総合的な』、そして同時に『抽象的な』国民である、というものであった。『彼らには具体的な生活・・・・・・についての感覚はまったくない。ドイツでは誰もが健全にそして強力な賛同を受ける。しかし、こうした要素には、いかなる意味でも有機的で調和のとれたひびきあいというものが抜けている。すべては局部的なものへと解体してしまい、そうしたものを集めた全体のイメージはそれ自身が抽象的なままであり、脳髄の幻想であり、死せる頭脳である。学問と生活、理念と現実、これらは相互に切り離された別々の存在になっている。常に、これはこれ、あれはあれなのだ』。」(同上341頁第3章「マルクスとキルケゴールの決断」)
 「矛盾」という用語は1960年代には非常によく用いられ、社会問題のみならず私生活にも応用して使われることがよくあった便利な言い回しであった。現代には「格差」が流行っており、矛盾もふつうに使われてよい言葉かもしれないが、どうも質的な対立感があり、程度の差を示さないため、使われにくい種類の用語になったのである。
 「こうした近代的な矛盾は、古代にも中世にも存在しなかった。というのも、古代においてはほんとうの私的人間とは奴隷のことだったからである。奴隷は政治的共同体にはまったく参加せず、それゆえに、十全な意味では<人間>ではなかったのだ、とマルクスは論じる。中世においては、私的な分野はどんな分野であれ、そのまま[ギルドなど]公共の団体の分野に包摂されていた。庶民の生活はそのまま国家の組織であった。とはいえ、人間の解放はなされていなかった。フランス革命によってはじめて私的生活という抽象的存在が、ただ政治にしか関わらない国家という抽象的存在と並んで生み出された。そしてブルジョアの自由は、国家からの自由という否定的な自由として捉えられることになった。とはいえ、真の自由とは、<自由な人々の共同体>における最高の共同体の自由でなければならないはずである。だが、自由を求める感性は、ギリシア人とともにこの世から消えてしまった。また平等を求める感性も、キリスト教とともに青い空のもやとなって消え失せてしまった。ただひとえに、現状の生活状況のラディカルな革命のみが、ポリスをコスモポリスへと拡大しうるのだ。つまり、階級なき社会の<真のデモクラシー>を作りうるのだ。そして近代社会の基本原則の枠に即してヘーゲルの国家哲学を実現しうるのだ。」(同章347―348頁)

 以下につづく記述は、やや類型的な表現になっていて分りにくい。物事を「利害関心」のうちに捉えるのは世に一般的なことであり、そうではなくむしろ個人の「利害」レベルで現実をみるということにポイントがあるのか。そうでなければ関心が損得に通じてしまい、いよいよ神の国から遠ざかることになる。
 「現実を『利害関心』のうちに基礎づけるという点で、キルケゴールは、フォイエルバッハやルーゲやマルクスと共通するものがある。もちろん、利害関心のあり方はそれぞれ異なり、フォイエルバッハにあっては感性的に、ルーゲにあっては倫理的=政治的に、マルクスにあっては実践的社会的に定義されている。キルケゴールはこの利害関心を『情熱・・苦悩・・』、もしくは『パトス』と呼び、それを思弁的理性に対峙させる。情熱は、ヘーゲルの<終結>とは異なり、<決断・・>へと駆り立てる。その点にこそ情熱の本質がある。決断は、『これか』あるいは『あれか』とそのつど異なる決断を下すのだ。すぐれた意味での決断とは跳躍・・である。」(同章355頁)
 「マルクスは人間の自己疎外を、国家、社会、経済の領域において分析した。自己疎外の政治的表現は、市民社会と国家・・・・・・・のあいだの矛盾である。疎外の直接的な社会的表現は、プロレタリアート・・・・・・・・であり、その経済的表現は、われわれの使用する事物の商品としての性格・・・・・・・・である。資本主義は私的所有に依拠した私的経済であり、そうしたものとしてコミュニズム、つまり、共同所有に依拠した共同経済に対する対立項である。」(同章360頁)

 「労働のこの変容は、精神的労働と身体的労働への分離が止揚されることを意味するだけではない。それ以上に、都市と農村の対立の止揚でもある。都市と農村のこの対立こそは、『個人が分業に包摂されていることの激烈な表現』なのだから。だが、この分業を本当に止揚するのは、所有を変革するとともに人間のあり方をも変革するような政治的共同体による以外にあり得ないとされる。」(同章368―369頁)
 以上のところは前後やや不覚に引用したが、レーヴィットにおいて地域問題が唯一ここで引用的に記述されているのでそうしたのである。都市と農村、現代では大都市と地方との対立(こういうものは存在しない或るいは対立させることはよくない、という考えは一方にある)についての基本テーゼが示されている。マルクス主義なきあとの現代における都市と田舎の分業の「発展的解消」の道はありや。労働と人間を変えるなどとはなつかしい理想的な観念論か、「この世にただのものはない」(M.フリードマン)

 「『あの神々の力を押さえ込んだ相手[キリスト教]の力は、いかほどに強力だったのだろうか?』。この問いへの若きヘーゲルの答えは、のちのバウアーやニーチェの答えとおなじで、キリスト教の侵入は、ローマ世界のデカダンスによってのみ説明できるというものだった。公的生活における自由と美徳が廃れ、ローマ人たちはただの私人になってしまった。そういう事態になったからこそ、このキリスト教という宗教が入ってくる余地ができたのだ。キリスト教自身が『最大に堕落した』民族に発しており、それゆえに、政治的自立や自由はこの宗教にとってなんの意味ももっていなかったからである。』(同章402頁)(本稿前半部での引用(101頁)の「普遍性の不存在」と同趣旨)
 パスカルも同様なことを述べているが、ヘーゲルはそこに私人と公人という政治の要素を加えている。支配しているものは合理的である、勝利したものは正統である、というヘーゲル的な思考を待つまでもなく、ヨーロッパの精神には、キリスト教が他を圧倒して世界を制覇した千年以上の歴史を経験しているので、現状を肯定し追認的な歴史観をもちやすいと思われる。

 「やがて、ヘーゲルは、現存の社会と文化のあり方を男らしく承認することによって、過去の過ぎ去った状態へのあこがれを自らに禁止するようになるが、その時点でも、ギリシア的生活へのこうした理解に変わることはなかった。教養あるヨーロッパ人がギリシア人にかかわると家郷にあるがごとき気持ちになるのは、このギリシア人たち自身が自分たちの世界を家郷にしたからである。つまり彼らは『外に出て行きたい』とも、『どこか別のところに行きたい』とも思わなかったからである。」(同章408頁)
 ヘーゲルは『歴史哲学』において「ギリシア人のところまで来ると、われわれはもう故国に帰ったような気がする。われわれはやっと精神の土壌の上に落ちつくことになるからである」と述べている。このレーヴィットの解釈とはやや意味がちがうように思う。まだ「自然」は運命として精神につきまとっているが、一応西洋の精神と同じだからと言っている(4/9)。
 この「自分たちの世界を家郷にする」という気持は、現代のわれわれの考えと似ている(「ふるさとの発想」)。ゲーテもエッカーマンに対し「実際、人間にはその中で生まれ、そのために生まれた状態だけがふさわしいのだからね。偉大な目的のために異郷へかりたてられる者以外は、家に留まっているほうがはるかに幸福なのだ」(1824年エッカーマン「ゲーテとの対話」から、エッセイ第169号参照)。
 オデッシー、十字軍、モンゴル、ドンキホーテ、コロンブス、ナポレオン、第二次大戦の異国、現代のさすらい人etc。

 そして最後の人ニーチェ。
 「ニーチェに言わせれば、ドイツ人は、現象の直接性に満足しないで、『目に見えるものをひっくり返し』、<存在>という概念の正当性をほとんど信じようとしないのだから、生まれつきのヘーゲリアンなのだ。この点では、ライプニッツもカントもヘーゲリアンだった、とニーチェは述べている。」(第4章「われわれの時代および永遠性の哲学者ニーチェ」421―422頁)
 19世紀においてドイツ人を本当に教育した人々は、ヘーゲルの弟子たちだったといったことをニーチェはおりにふれて述べているが、この発言の意味は、ニーチェが意識していたよりもはるかに射程の長いものとなった。」(同章440頁)
 「ニーチェは過去を振り返ることによって、<ヨーロッパのニヒリズム>の到来を予知した。<ヨーロッパのニヒリズム>とは、神へのキリスト教的信仰が、それとともに道徳が崩壊してしまった以上、『もはやなにものも真ではなく・・・・・・・・・・・・・』、『いっさいが許されている・・・・・・・・・・・』ということである。」
(同章444頁)

 ここからは「上巻」(第一部を扱う)の最終章・編のゲーテに戻ってくる。
 レーヴィットはゲーテを好ましく記述しているように読める(くわしく書かれていて、そこを読むよりよい方法はない)。以下の引用は、関心のあるところを選んだまでであり、本筋とは必ずしも合っていない。
 『ひとっ跳びに』究極のものに到達しようなどと考えなかったゲーテのような人もいた。<過程>を賞賛したこのゲーテは、永遠を生の<可能性>として企てたりはしなかった。むしろこの地上の肉体的な生活のすべての瞬間のうちに永遠が現存していると見た。それゆえゲーテの<ねばらない>という必然性に関する問いと<したい>という意欲に関する問いをニーチェとはちがったかたちで立てた。ゲーテは真に存在者の全体のうちに生きていた。それゆえ自己自身を乗り越えて上昇することなどは考えなかった。したがって、かれは、認識の圏域の全体は、意欲と必然の統一のうちに含まれていると見抜いていた。」(同章463―464頁)
 「彼はツェルターに宛てて、ルター主義の基礎は、決定的に対立関係にある律法・・福音・・という両極の媒介を遂げることにあります、ところで、この両極の代わりに、必然・・自由・・を置き、その相互の距離と接近を見るなら、この円環のうちに『人間の興味を引くいっさいが含まれていることが』はっきり見えてくるでしょう、と書いている。」(同章465頁)
 「ゲーテは、旧と新、つまり古代と近代、異教とキリスト教、必然と自由、当為と不可避といった対立を列挙している。あとの二つの二項対立、つまり必然と自由、当為と不可避の両極のあいだの関係が不釣り合いであることから、人間が味わう最大の苦悩、そしてこうした苦悩の大多数が説明できる、と彼は論じる。この不釣り合いから生じる『困惑』が小さく、かつまた解決可能である場合には、滑稽な状況のきっかけとなりうる。この不釣り合いが最高度のもので、それゆえ解決不可能な場合には、悲劇的な状況が生み出される。」(同章466頁)

 ゲーテは、エッカーマンの手になる会話口述録からもうかがえるように、自己の体験としての瞬間と、そこに生起する自己の感じ方や考え方を、貴重かつ唯一のものとしていた。
 「だが、無限の価値があるのは、永遠が宿る現在ばかりではない。うつろい行く瞬間といえども大きな価値があるのだ。過去が生にとってもつ価値すらも、現在の瞬間を真剣に生きるかどうかに依拠している。現在の瞬間を真剣に生きることを通じて、過ぎ去ったものが未来に保存されるからというのだ。それゆえにゲーテは、日記を書くこと、ありとあらゆる記録保存を推薦している。」(第5章「時代の精神と永遠性への問い」499頁)
 「ブルクハルトも自らの世界史の考察を、世界の歴史の動きについてのゲーテの見方に倣って作り上げてきた。それゆえにブルクハルトは、近代の歴史家のなかで歴史をあるがままに見たただ一人の歴史家である。とはいいながら、ゲーテとくらべるならばブルクハルトですら、ヘーゲリアンだった。なぜならブルクハルトは自然を直接に見ることはせずに、芸術を媒介にして見たからである。ヘーゲル、ランケ、そしてドロイゼンによって<自然>を<精神>から、そして自然についての知を、歴史についての知から切り離すのが常態と化したが、ブルクハルトもその切り離しを前提としていたのである。精神についてのいっさいの歴史的学問[日本で通常人文科学と言われているものすべて]は、デカルトに始まる、自然と精神のこの断絶に病んでいるのだ。」(同章534頁)
 以上のように、本書の要領のよい書き抜きはむずかしく、これによる要点についての記憶再現はままならないのである。

 カール、レーヴィットは、ナチスからユダヤ系のために追われ、米国に渡るまでの1936年(昭和11年)から1941年(昭和16年)まで5年間、東北帝大において哲学と独文学の講座を担当している。本書はその時に執筆されている。
 フッサールそしてハイデッカーに学ぶが、のちに離れる。第一次大戦ではイタリア戦線において重傷、ミュンヘンの学生時代に講演を聴いたウェーバー、シュヴァイツァーを生涯畏敬する。1952年(昭和27)年に米国から帰独し、ハイデルベルグ大教授、1973年(昭和48年)死去。

(2016.3.20 記)
(2016.4.9 追記)