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イッセイエッセイ

1136号 ソフィストとは誰か(その1)

2016年04月01日(金)

 ギリシア哲学の田中美知太郎については、1980年代以前の保守・革新の政治構図の時代に、雑誌「文藝春秋」の巻頭随筆において、当時の一般世論とはやや観点を異にする主張を毎月展開しておられたような記憶がある。今日のなんでもありの世相のなかで、むしろはるか古代のものに参考になる温故知新的な物の見方がないかどうかの関心をもって、先生の全集(第15巻)にあたってみた。
 さて随筆を何篇か読んでみたが、当時に受けた印象とはやや違うような感じがあり、全集の別の巻にも別の随筆として入っているのかと思ったりした。
 そのとき別の巻(第3巻)にある「ソフィスト」という作品―これは戦中の書き下しの著作だそうだ―が目にとまった。分量も150頁ほどで文章もむつかしくなさそうであり、随筆に求めたのと同様な関心をもって、何か参考になるところありやと一読した。古代のアテネとはいわずいつの世にも、ソフィストらしき人達がいて、世をはばかっているかもしれぬから、ギリシア時代のソフィストの行状を知れば、今日での類似現象の絵解きができるのではないかと期待をしたのである。しかし結論を言うと、事実はそう単純ではなかったのである。ソクラテスにやりこめられる軽薄、空虚な弁舌家のソフィスト、といった先入観を満足させてくれる本ではなかった。
 この書物は最初にまず「ソフィスト」捜しをするのである。したがって「ソフィスト」に関連して多くの実在したらしい人物が出てくるので、彼らの出身地であるギリシアの地方名と都市名が参考として巻末附加の地図上に示されている。読みながら場所を捜してみると必ずこの地図に載っており便利であり有難く思った。大抵の本の索引地図は、参照しても名前が見当らないことが実に多い。本書の内容の理解がどの程度に及ぶかはともかく、この正確で丁寧な作りだけを見ても書物としての立派さには感心したのである。
 「ソフィスト」(1941年)は「田中美知太郎全集」第3巻(昭和62年増補版 筑摩書房)の冒頭に収録されている。第3巻の中には、続いて「ソクラテス」、「西洋古代哲学史」、「古代哲学―文献解題を主とした研究入門」がこの順序で入っている。
 さて著者の見解によれば、これまで(執筆当時のこと1941年発表、1957年再版、1976年改訂版)、日本でも外国でもソフィスト全般について書かれた纏まりのある本はほとんどなく、多くは哲学史の一章としてあるいは弁論術とか教育の見地からのものであり、いずれもソフィストを正しい位置づけで全貌をとらえていないそうだ。そこで著者としては、もっと綜合的な立場で、諸家の見解を真似たり折衷したりすることなく、根本史料にもとづいて材料の分析が導くままに明らかになったところを忠実に述べたい、したがって普通の見解とは異なるような結論に到着したところもないではない、と「まえがき」で語る。
 なお、この「普通の見解」については、安直ながら一例として、高校教科書とその参考書の説明を以下に掲げておく。
 「民会や民衆裁判所での弁論が市民生活にとって重要になってくると、ことの真理しんりいかんにかかわらず相手をいかに説得するかを教えるソフィストとよばれる職業教師があらわれた。『万物の尺度しゃくどは人間』と主張したプロタゴラス(前469ころ~前399ころ)がその典型である。これに対しソクラテス(前469ころ~前399)は真理の絶対性を説き、よきポリス市民としての生き方を追求したが、民主政には批判的で、市民の誤解と反感をうけて処刑しょけいされた。」(山川世界史教科書 45頁「ギリシアの生活と文化」)
 同じく山川出版社「世界史B用語集」(1996年版)では、ソフィストは次のように解説。
 「前5C民主政盛期のアテネに輩出した弁論・修辞の職業教師の自称で、“知恵のある者”の意味。相対主義をとり、人間を考察の対象とした。ときに事実に反する詭弁きべんを使うものがあったので、詭弁学派ともいう。」
 以下、田中美知太郎著「ソフィスト」を章ごとに記述の順に従って概略の要約と一部引用をしてゆく。なお傍線とそれに続く短文は、小生の感想の部分に当るものである。また要約及び引用箇所の下線も小生が付したものである。

第一章 悪名(7―13頁)
 「ソフィスト」のギリシアの原語は「ソピステス」、もとは「知恵のよくはたらく人」とか「知恵のはたらきをよくしてくれる人」というだけの意味であったが、ギリシア時代紀元前五―四世紀には、すでに何か悪い意味の言葉になってしまった
 BC六世紀初頭には、知識のためにソロンやターレスなど七賢人が世人から尊敬・感謝されたのであるが、百年後のBC六世紀末からBC五世紀初めにかけては、すでにヘラクレイトスやクセノパネスとかの思想家は、その思想や知識のために自己の孤独を感じるようになっている。そしてさらに百年の後、知識が民衆に普及して来た丁度その時代に、人々は「ソフィスト」という名の前に非難を感じ、悪名をみることになる。
 ソフィスト(文献では「ソピステスsophistēs」と記されている)が悪名を得ることになるのは、主としてソクラテス学派の人々(プラトン、アリストテレス、クセノポン)の間においてなのであり、これと対立した学校をもっていたイソクラテス(436―338BC)は、弁証法を云々するような自分の好まない人々、つまりソクラテス学派の哲学者たちなどに対して逆にソフィストと呼び、これを哲学者(ピロソポス)から区別していたという事実関係がある。

 なおプラトンの対話篇では、ソフィストとは要約すると、見せかけの偽物の学問をよく知っているようにいつわり装い、それを作ったり、売ったりする商人であり、金持の青年を獲物に金儲けする者という概念を与えている。
 ―しかし著者によればソピステスが必ずしも文献的に悪い意味で使われた訳ではなくどっちがどっちだという絶対的にはっきりした判断はできないとまず話を進める。

 ―以下の第二章、第三章では、著書は文献に出てくる固有名詞にしたがってソピステスと自称ないし他称されている実在の人物について、彼らが問題のあるいわゆるソフィストと目されるべき人物かどうかを捜がしてゆく。
第二章 歴史的モデル(14―21頁)
 ソピステスの概念(述語)は大体わかったとして、それでは誰がソフィストであったのかをみる(主語ないしモデルは)。
 まずソピステスというのはプラトン対話篇などからわかるように、1つの職業名であり、ソピステスとは職業的な教師なのである。青年に対し富と家柄だけでなく功名心のもてる資格(たくみに言論する技術、そして、基盤としての教養、治国斉家の術)を授ける者とみられた。プラトン著の『プロタゴラス』や『ソピステス』から察するに、ソピステスの最有力の人物としてプロタゴラス(トラケのアブデラの人)がモデルとなっている。本人も自分がソピステスだと名乗っている。
 ―このことから悪い意味には使われておらず、また悪名に実際にあたいする人物かは、この章ではまだわからないまま。

第三章 その人びと(22―36頁)
 このような人間の教育を受けもつ者としてのソピステスとは、いかなる人たちがその中に数えられるか。先のプロタゴラス(プラトン『メノン』では、存命中も死後も大変評判のよかった人として描かれるのである)のほかに、ゴルギアス(シシリイのレオンティノイの人、祖国救済の使節として訪雅典)、プロディコス(ケオス島のイウリスの人)、ヒッピアス(ペロポンネソスのエリスの人。1度聞いた五十の名前をその順序で再現できた強記の人)、エウエノス(パロス島の人)があげられる。これらの人物は文献として『ソクラテスの弁明』、プラトン『プロタゴラス』に登場し、人物の内容もほぼ共通している。
 ―以下、これらの人物の来歴と行状がくわしく文献的に説明される。その結果、
 「彼らは互いに競争し合う同業者なのである。しかし彼等の間には同業組合のごときものの組織も存在した模様はないのである。」(34頁)
 「われわれは、彼等に共通なものとして、その教育目的というものをこれまで注目して来たのであるが、しかし事実上彼等に共通なのは、むしろプラトンがソピステスの概念でまず第一に考えたところのもの、すなわち彼等の職業性であるということができよう。彼等はその仕事に対していつも報酬を要求する者なのである。」(34頁)
 しかし、ソピステスがただ金銭獲得のみを目的とした者のように考えることも正しくはない。少なくともプロタゴラスの態度はもっと高尚であったように思われる。
 ―ソピステスの大物であったプロタゴラスは、いわゆる悪い意味のソフィストのような人物ではなかったという結論がここで出ているようだ。

第四章 問題の人びと(37―49頁)
 ―第三章に出てきた諸人物はプラトンの記述にもとづいてソピステスのうちに数えたが(ここでは言うまでもなく、ソフィストだという単純な意味ではない)、問題なのは、そのほか当時のソピステスのうちに数うべきビックネームがなお文献的に残っているかを調べてゆく。
 トラシュマコス(カルケドンの人、弁論術の教師か)、アンティポン(クセノポンからソピステスと名指しされており、その他の史料からみても悪名ソフィストであろう)、クリティアス(ソクラテスの弟子、プラトンの母の従兄、クーデターに加わりアテナイ市民から憎まれる。しかし職業教師ではないからソフィストではない)、エウテュデモス(キオス島の人。プラトンは明白にソピステスと呼んでいる)、カリクレスなど。なお小粒ではクセニアデス、リュコプロン、アルキダマス。
 ―これら吟味の対象になった人物について、行状がどうか詳しく調べられ、ソフィストかどうかの評価をする。そして厳密にそうだと決定することが不可能であると述べる。
 「われわれの定めたソピステスは、プロタゴラスから始まり、教師を職業とするものであって、その仕事の主要な部分は高級な人間教育と政治教育とにあったのである。」(38頁)
 トラシュマコスは、法律は権力者の利権のためのものであり、正義は他人には得になっても自分が行うには損なものであるという主張をした(プラトン「国家」)。
 危険な学説をもってソピステスの特徴と見ることは、<・・・>何ら根拠のない独断である。またプラトンの対話篇におけるソクラテスの反対者をすべてソピステスと見なすようなことにも、別に何の保証もないのである。」(38頁)
 ―当時として危険思想を主張したからその人物がソフィストであるというのは筋が通らないし、善玉のソクラテスに対立して登場する人物が悪玉ソフィストであるというのもナンセンスであるのは言うまでもないといっている。このように多くの人物は、著者の調べによってもいわゆるソフィストに当るのかどうか余り判然としないのである。
 「クリティアスは自身がソピステスなのではなく、むしろあるいはソフィスト的教育の産物であると言うべきものなのであろう。否、むしろペロポンネソス戦争期のアテナイの現実が生んだ悲劇的人物と呼ぶ方がもっと妥当かもしれない。」(46頁)
 ―ソピステスと周りから呼ばれたり、後代のアリストテレスなどからそう批判されても、どういう意味で言われたのかがよくわからないところがある。その種の問題視されるべき人たちが少なからず存在したことは確かなのだろうけれども、結局は外形的にソフィストと言われたことでソフィストになっているという傾向がややみられる。

第五章 その時代(50―66頁)
 ―次にソピステスによる教育が求められた時代と社会はどういう状態にあったか。つまりソピステスの社会的需要がなぜ生まれたか。
 ソピステスの時代とは、アテナイにおけるペルシア戦争(BC490―479年)が終って10年の後(BC470年頃)からペリクレスの時代(BC461―429年)をえて、ペロポンネソス戦争(BC431―404年)そしてソクラテスの死(BC399年)よりやや後までの時代、を中心とするものである。
 この時期はアテナイの興隆から没落までの約100年に当り、ソロンの立法(BC594年)、そしてそれを徹底させたクレイステネスの改革(BC508―507年)によって、アテネでは民主化が進み、かつての貴族的な地位は全く有名無実化し、国家有数の人物となるためには家柄と財産によるだけでは不可能となった(民主政治により政治教育をうけた才能ある者が、議会で経験をつんで政治家になる時代に変ってきた)。
 アテナイのデモクラシーは、dēmos(区、区民大衆)の優位(kratiā)であり、区民という資格がすべてであるような政治を意味した。その頃のアテナイの政治体制の基礎はもはや氏族のような血縁団体ではなく、地区によって分けられた地域団体であった。
 「生まれた家柄が特権をもたらす貴族政治に対して、われわれはここに生まれた地区が平等にあらゆる政治上の権利を保証するデモクラシー(dēmokratiā)というものを見る。」(56頁)
 ―アテネのデモクラシーが、個々人としての民衆(市民権のある)を基本にしたという現代的な意味の理解では表面的になってしまうのであり、彼らが地区に属していたという属地性(地縁性)が根拠になった民衆であり、デモスの原義は人民ではなく地区であるという由来の説明は、今日の選挙制度を議論するときに歴史的教材となりうる。

                           (続く)

(2016.3.27 記)