西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1134号 文明は丘のように古く、風のように伝わる。

2016年03月24日(木)

 「メソポタミアとインダスのあいだ―知られざる海洋の古代文明」後藤健ごとうたけし著(筑摩選書2015年)
 メソポタミア文明の成立時期は紀元前3500年頃のこと。
 「世界史上著名な他の古代文明である中国文明やインダス文明を考慮に入れたとしても、現在人類史上最古とされるのはメソポタミア文明である。そこでは前4千年紀(拙注―紀元前4000年から紀元前3001年までの1000年間をいう。なお現在は、<紀元後>三千年紀の初頭である)の中頃に最初の都市社会が生まれ、しばらく後に文字による記録が開始された。おそらくこれは当分変更されることのない定説である。」(同書11頁)
 エジプト文明が起ったのは紀元前3200年頃、インダス文明は紀元前2600年頃のこと。
 「旧世界でメソポタミアに次いで文明が成立したのはエジプトのナイル河畔である。(中略)エジプト第一王朝の成立は、現在前3150年前後に置かれている。第三の古代文明はインダス文明である。その成立年代は、かつては前2300年前後とされていたが、最近では前2600年頃に引き上げられている。そしてこの文明は前1800年頃に終りの日を迎えた。」(同)
 中国文明は紀元前1500年から紀元前2000年以降の頃のこと。
 「中国文明はこれらの三文明に比べて相当遅い年代に成立する。いん時代前期に相当する二里岡にりこう期の始まりは前1500年前後であり、最古の王朝『』に相当するとされる二里頭にりとう期がそれに先行するとしても、実態は未解明で、現在のところ、その始まりが前2000年より早いとは考えられない。」(同11頁)
 以上の見解に従えば、メソポタミアとエジプトは成立年代に300年の差、インダスとはその後600年の差、そして中国とはさらに900年ほどの差が古さの差として存在することになる。
 著者の後藤健博士(1950―)は、東京国立博物館の西アジア・エジプト室長、上席研究員などを務めており、西アジア考古学の専門であり、中東各地で考古学調査に従事されておられるようだ。
 著者に言わせれば、いわゆる「古代の四大文明」は、1950年代初め以来、学校教育の現場で取り上げられてきたものであり、「四大文明」なる言い方は「言いえて妙」であるが、教育者による思いつきにすぎない。「学説」などでは決してなく、所詮は半世紀以上前に作られた、もっともらしい言い回しに過ぎない。そして四つの文明の研究は、日本ではそれぞれが「ある程度完結したものとして行われる傾向」があって、研究者の多くは「自分の研究対象以外の古代文明に対して、あまり関心をもたない」、もっていても「あまり『深入り』しないのが普通」であったと見ている。(同11頁から)
 そして、人類最古の文明がメソポタミアの域内だけで興ったとすると、いくつかの疑問点が生じ、二つの大河の流域は石器時代の最後期に灌漑技術が導入され、農耕が大いに発達したけれども、それ以後の他のエジプト、インド古代文明とはことなり、特異な自然環境を背景(自己完結性が弱い)にしており生産物の多くが食料と衣料に限られ、何ゆえメソポタミアの都市支配者が余剰の農業生産物を集めて蓄積しなければならなかったか(労働力の集中と社会的・政治的ヒエラルキーの確立の必要性)である。域内では入手困難な木材、石材、金属、貴石、とくに文明成立に前後する時期に銅製品や金などの遠隔地産物資が出現するのは、交易地として隣接のアラビア湾岸(とくにオマーン半島の銅山)とイラン高原があったという著者の見解である。
 アラビア湾(ペルシア湾のこと)は、日本の本州とほぼ同じ面積だそうであるが(そういう当り前の見方を改めて教えられる)、これを囲む乾燥地域で漁労・遊牧社会であったアラビア半島沿岸(原エラム文明)、そしてイラン高原(原ディルムン文明)とのリンクをふくめ、さらに遠くアラビア海に出てインダス川流域をふくんだ広い範囲の『湾岸文明』についてを、最近わずか60年間ほどで急速にすすんだ調査研究の成果をとり入れて、メソポタミア文明と域外との強い関係で説明したいというねらいである(遺跡も残っており、メソポタミアの最古の文書には、これらの物資交易の記録があるという)。
 こうした古代文明の遠隔地間の重要物質の安定確保のための海上と陸上の交易ネットワーク(ワールド・システム)ができ上っていた。
 また著者は文明の伝播、交流という事実を述べる。
 「日本で歴史教育を受けた人なら、メソポタミアとインダス文明のそれぞれについては誰もが知っているが、それが「四大文明」のうちの二つというような無機的な関係ではなく、歴史の中で数世紀の期間、相手を必要とし、相互に分かちがたい関係を続けてきたという事実は、おそらく教わってはいない。(中略)ウンム・ン=ナール島はそのハブとして機能したのであり、メソポタミアとインダスの文明が直接交流した訳ではない。この二者以外に、この島(拙注―著書には今のオマーンのところに所在したと記す)はハブとして、イランの都市文明とも交流していたであろう。」(同114頁「ウンム・ン=ナール文明―湾岸文明の成立)
 「子供は独りで大人になったりしない。親族や他人と接して感化を受けつつ、一人前の人間になっていく。接する相手も同じような影響を受けるだろう。古代文明も独りで文明になったのではない。周辺地域との相互の関わりの中で、文明の段階に達したのだ。かつて我々が知りえた情報では、わかりやすい物的証拠を遺した文明だけは誰の目にも見えたが、あまり派手でない隣人たちや、彼らとの関係の内容までは、詳しく知ることができなかった。しかし歴史学や考古学の成果は時間とともに増加する一方であり、新情報によって、古代文明の周辺にどのような世界が広がっていたのかが、しだいに明らかになってきた。」(同23頁)
 こうした最近における古代文明(メソポタミア)の研究調査の結果を知るならば、一つの文明が発生し、それが伝播してゆくものであるという宮崎市定の見解は妥当性があるということになる(1059号参照)。

(2016.3.20 記)