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イッセイエッセイ

1132号 貝塚博士の「論語」と史観

2016年03月22日(火)

 貝塚茂樹は著作『孔子の史学について』(昭和22年)において、歴史家にとって「いかに歴史を書くべきか」の問題つまり「歴史学の史学研究法」(方法論)に関して、西洋の歴史家などの考え方や著者が古くからなじんできた中国・孔子の経書を例にしながらさまざま論じている。(「貝塚茂樹著作集」第6巻所収 昭和52年 中央公論社)
 まず何人かのドイツの歴史家やフランスの文学者の歴史に対する態度について紹介をして、話を進めてゆく。(以下は、同著作集51頁~66頁から)
 グスターフ・ドロイゼン(19世紀ドイツ史学、ランケなどの浪漫主義史学をうけて政治史学派をたてる)が、『史学綱要』において「史学ヒストリクは歴史記述のための詩学ポエテイクである」と語っていることにまず共感を示す。またドロイゼンが言う歴史家が関心をもつべき「現在における過去」についてその意味するところは、「現在ある形をもって実在する過去でなければならない」とする。そして、歴史を書く基礎となるものは「過去が現在残している瘡跡であり、これはとりもなおさず史学における史料に外ならない」とドロイゼンの考え方に賛同する。
 科学的客観的な過去の再現手続においても、歴史家の個人的な想像に依存する部分が多いのであるから、門外漢である文学者の意見が参考になるとして、アナトール・フランスが「歴史は科学ではない。芸術である。人は想像によってしかこれに成功することはできない」と語っていることを挙げる。想像の役割をさらにはっきりさせた主張として、ポール・ヴァレリーが歴史の叙述の中でしばしば使われる「もしも」という接続句は、過去に及ぼす想像によって史料にもとづく抑制と同時に歴史に創作の力を与えるものであり、この「もしも」がわれわれの生活と歴史を密接につなぐ秘密がある、と述べた例を挙げ、犀利な観察として私の感嘆しておかないところであると述べる。
 次にベルンハイムの主張から、歴史が記憶され記述される動機によって、およそ歴史的知識は(1)物語風歴史(文学的な動機)(2)教訓的・実用主義的歴史(教訓的・政治的・啓蒙的な動機)、(3)発展的発生的歴史(客観的認識のための科学的な動機)の順で歴史の記述形態の発展を図式化している述べ、モンテスキュー、ヴォルテールなどの過去を裁判しようとする啓蒙主義の合理主義的歴史記述の影響が残存していると述べる。これに対し、ランケの浪漫主義史学は各時代を比較的公平に理解しようとしている。
 このような著者の知るヨーロッパの歴史学あるいは文学者の意見をおさらいした後、著者が専門として馴染んできた孔子の言説をテーマに『春秋』を材料にして所論を広げてゆく。
 「古代以来西欧の歴史のさまざまな形態を通じて、あるいは顕在的に、あるいは潜在的に生え拡がっている実用主義的な歴史は、遥かに遠隔の地である中国において、孔子の著作と伝えられている『春秋』という特異な歴史叙述となって開華していることは、史学上注目に値する現象である。しかも驚くべきことには『春秋』は実用主義的歴史叙述としては、過去を裁こうとする点において、啓蒙主義的な史学と類似点をもつことである」(著作集第6巻60頁 「古代中国の精神」)
 孔子によって筆削を加えられ、左氏伝や公羊伝として注解が伝わる魯国年代記『春秋』について、上記のように孔子は周の礼制に一々批判を加えてこの世に理想制度をうちたてたいという志をもっていたと貝塚茂樹は述べる。
 いうまでもなく『春秋』は中国における歴史の初めをなす書物である。このように記述態度は俗に春秋の筆法とも呼ばれるほど厳格中正をきわめるが、孔子が理想の政治道徳の秩序を復古するため、魯国の正史を編纂し直したものと解されてきた(司馬遷の『史記』もそのように伝えているという)。しかし、貝塚茂樹によるとこうした通説に対し、近年(その当時のこと)武内義雄博士が『論語』の文献研究にもとづき、この『春秋』が教習されるのは孔子在世よりはるか後代のことであり、孟子による宣伝の影響から孔子の作成説が生まれたのではないかということらしいのである(さらに現在の定説かどうなのかは知らず)。ここで本題とは話しがそれるのではあるが、この点について著者の態度は「もっぱら『春秋』を孔子の編纂した歴史であるという解釈によって記述してきた私は、この点について、なんらかの説明を必要とする」として、『春秋』が公式の教科書としては当時はまだ学習されなかったという事実は仮にあったとしても、これに類した著作を孔子が全然編纂しなかったとは論断できないのではないかとしている。
 もっともそうした古典古代の記述が、史実かというような真偽論はともかくとして、貝塚博士がつづいて論ずるように、編纂の動機が「悪人栄え善人の窮する」という運命への根本的な疑念、忿懣をもとに、現世では不可能な王者の位置に立って過去の歴史事件を批判することにより「天から与えられた救世の使命」を実現するという希望を孔子がもったことはきわめて自然な心理過程である、と弁明する。
 偉大な歴史家の歴史著作には、『春秋』にみられるようにつねに強烈な運命の反逆、過ぎ去ったものを過ぎ去らないものとしてとどめようとする人間的欲求があると言うのである。
 貝塚博士の訳注になる「論語」(中公文庫 昭和48年)は中国古典の教養あふれた解釈がみられ、読みやすく面白い本である。葦編三絶(?)、いま小生の手元にあるのは2冊目である。なお、金谷治博士訳注の岩波文庫版「論語」は解釈は淡々として人間味はないが、語句と人名のくわしい索引があるので、何がどこに書いてあったかの場所を捜すときにはきわめて便利な本である。
 貝塚茂樹の具体的な歴史解説を記述によって知りうるものとしては、著作集第8巻(昭和51年)に通史として『中国の歴史』(昭和39-45年にはじめ岩波新書から出版)が収録されている。
 このあとがきでは、例えば「中国史の時代区分については、深く立ち入らないという方針を立てた」と述べている。なぜなら、この問題については中国の歴史学者の間でも戦後激しい論戦をつづけており、日本でも意見が対立していて、一致した結論に達していない、一元的な説明による時代区分をした場合に年月の経過によって、根本的に修正がいる、という理由をあげている。
 もとより中国の二千五百年余りの歴史を書くためには、年代の議論を別にしても、それこそ多くの先人の業績を参考にしなければならず、むしろ何を書かないですませるのかがむずかしいと思われる。著者は執筆に当って、とくに編年的な歴史史料の整理方法にすぐれている司馬光の『資治通鑑』などを参考にし、また中国の大学における教授用テキストである『中国史教学大綱』(1956年)がもっとも参考にしたと記している。
 このようなことから推測されるのは、貝塚史学は独自の見解を強調するというよりも通説的であり、批判的史観というよりも文学的、古典教養的であり、穏健な記述態度にどうしても見える(通読していないので断定しかねるが)。
 作家の宮城谷昌光さんがその自伝において、中国の時代小説を執筆する基礎として白川文字学の根本を学ぶ一方で、貝塚茂樹の著作物についても全て読んでかかったと書いておられるのは、なんとなく理解できる感じがする。小生が、わずか二巻だけであるが、貝塚先生の本を拾い読みをする気になったのもそのためである。
 これに比して以前紹介した宮崎市定博士は、著者とはまったく同学派で同年代の人とみられるにもかかわらず、中国史としての独自の時代区分を大胆に設定し、歴史に経済・社会的なアプローチを積極的にとっている。貝塚史学が中国史の舞台は「地理的孤立性」(注1)をもっていると始めているのに対し、宮崎史学は文化一元伝播論(注2)の立場をとる。さらに夏・殷・周や春秋戦国期の中原をめぐる争奪がその地に産する塩の利権と深くかかわっていたという資源をめぐる議論を行う。また、論語などの古典文献のクリティークにおいても、一字一句を玉条とはせずに、脱字や誤用などがみられるとして合理的な訂正を加えて合理的な解釈を加える。中国の歴代王朝がこうむった内憂外患の問題についても、単に周辺と中原、野蛮と文明の対立とはとらえず、素朴と文明の対比(注3)としてダイナミックな関係を視点におく。両者は学問系統においてかなり対照的であるように見える点は注目すべきである(エッセイ1111号「中国史における文明主義と素朴主義」、1116号「素朴やいずこ(文明と素朴)」)。 

(注1)「アジア大陸の東端に位置をしめている中国は、エジプト、メソポタミアなどの古代文明諸国からもっとも遠くはなれたところで文明を形成した。地理的位置からくる孤立性は中国の文明、したがって中国の民族性に深い影響を与えずにはおかなかった。中国や朝鮮とともに同じ極東の文明世界の一員となっている日本人にとって、この西方世界の文明からいかに遠く隔てられていたかということが、あまりに自明なことがらであるため・・・・・・・・・・・・・・・・いつもすっかり忘れられている・・・・・・・・・・・・・・。<・・・>もちろん地理的環境が人間の歴史を決定する唯一の条件ではないけれども、上の地理的位置はどんなに力説しても足りないほど重要な意味をもっている。」(貝塚茂樹著作集第8巻「中国の歴史」16頁 第一章「中国の自然と人間」)(傍点小生、以下同じ)

(注2)「極東の世界で孤立していた夏人あるいは殷人の祖先たちが、青銅器鋳造技術を自らの手で発見したか・・・・・・・・・・あるいは西アジアから間接的に学んだかは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・現在いまだ考古学的に実証できない・・・・・・・・・・・・・・・・問題である。もしも中国がこの技術を外から学んだとしても、その技術は安陽に遷都して以後の殷代後期において、全世界の青銅時代に比類を見ない高度に達し、芸術的な祭器を製造するようになった。中国の青銅器技術の優秀さは何人も認めるところであるから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青銅鋳造技術を自国で始めて発見したか・・・・・・・・・・・・・・・・・・他国から輸入したかは・・・・・・・・・・あまり重要な問題ではない・・・・・・・・・・・・であろう。」(同巻60頁「殷王朝文化の開花」)
 しかし文明の利器をみずから発明したか、それとも伝播を受けて応用したのかの違いは、人間の作る社会の性質をとらえる上では、歴史の力学上の理解として重要なのではあるまいか。また、その次の文明としての鉄製農具の使用についても、「中国の歴史」では、以下のように、それがどこからか伝わったのか中国で発明されたのか等について、はっきり言及がなくだんだん出来上がったというような見方になっている。

「春秋末戦国時代の始めごろから製鉄技術が盛んになった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ことは文献によって知られていたが、鉄が土中で腐蝕しやすかったため、遺物が見出しえなかった。革命後・・・七省二十二か所の遺跡などから鉄製農具とその鋳型が発見された」(同96頁)
「製鉄業の進歩は、戦国時代の農業のみではなく、産業界に革命をもたらした。商工業の大躍進によって、今までの王室貴族階級の用に供する青銅器鋳造業とはちがって、多数の農民の使用する大量の農具の需要をみたす製鉄業がはるかに大規模な産業となった。西周から春秋時代までの都市国家の貴族を中心とする住民は一万戸を多くこえないと想像されるが、戦国時代の七国の首都は、多数の商工業民を包含し、七万戸をこえ、成人男子だけでも二十一万人をこえるという斉の首都臨湽りんしのような大都市が出現した。都市の富裕な市民は盛り場に集まり、音楽・演芸・闘鶏・ドックレースなどの娯楽にふけった。その繁華街の雑踏は近代の大都市の生活を思わせるものがあった。」(著作集第8巻97―98頁
第5章「古代都市から世界国家へ」)

(注3)「元朝が中国文化をこのように黙殺したことは、長い中国歴代の王朝史上の異例である。その原因は、蒙古が中国本土を征服する以前にたびたび大西征を行って、中央アジアのイスラム回教文化、西欧のキリスト教文明に接触してきたので、自らは素朴な遊牧民族・・・・・・・・・・であったにもかかわらず、北魏・遼・金などのように中国文化を唯一の文化として心酔しなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ためだとされる。
 蒙古人は、西方の多くの文明国を武力によって征服し、文明人を使役して、高度な文明の成果を思うまま享受することができた。元の宮廷に派遣されたローマ法王やフランス王の使節などは蒙古人は世界中もっとも傲慢な国民であり、自ら世界の王として自負しているといって驚いている。その武力でもって、ふみにじり征服した中国の文明を眼中にいれなかったことは当然である。これは中華主義をもつ中国人、とくに士大夫にとって、始めての経験であり、その屈辱感は深刻なものだったと想像される。
 この常勝の蒙古軍が、高麗軍と水軍に長じた江南の軍と連合した十四万の大軍をもって九州に侵攻したのを、みごとに撃退した(1281年)鎌倉武士の奮闘は世界史に名をとどめる偉業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・である。対馬海峡の渡航によって軍馬がつかれて蒙古騎兵の機動力を十分に発揮できなかった地理的条件に、神風という偶然・・・・・・・が加わっているとしても、よく蒙古の大軍を海岸でささえた戦闘力は高く評価・・・・・・・・さるべきである」(著作集第8巻36頁 第18章「地上最大の帝国」)
 上記における「素朴な遊牧民族…」のところは、宮崎市定の「素朴主義」によるのではないかと推測する。
 一方で蒙古人が征服によってすでに西欧文明をいささか知っていたので、中国文明に圧倒されなかったという見方(半素朴・半文明性ということか)は、宮崎史学にはみられない。

 なお、この「文永・弘安の役」の著者評価とその表現振りについては浪漫主義的な気分が溢れている。

(2016.3.22 記)