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1131号 文化について

2016年03月22日(火)

 書評(毎日1月17日、第1110号参照)を読んで本書を一読する気になったのだが、なんとも色々と沢山のことが次々と書かれている本である。
 本書は(以下の要約は必ずしもうまくいっていない)、ある文化的特質を固有不変の本質として捉えるのではなく、文化の生成にまつわる過程・力学を重視する学術上の構築主義に立ち、ある文化的特質の断片性や不完全化、文脈依存性を解明するという立場によっている、と述べる。一方で、人間の営為は世界を分類し意味づけることであるから、現実には文化を柔軟に捉え、本質主義的な言説も戦略的に(説明の都合上ということか)用いることとする、と述べる。(本書とは、渡辺靖著「<文化>を捉え直す―カルチュラル・セキュリティの発想」岩波新書2015年 156~160頁)

 このようにやや複雑な言い廻しをしているが、要するに例えば、日本人らしさを主張する「日本人論」は本質主義の典型であり、その対極として世の中は色々な国や民族、なんでもあるのだから、相対的なものにすぎないというのが構築主義であり、どちらかで徹底はしきれないというわけである。
 本書では「文化」の概念はあまりはっきり定義されておらず、教養から知識、信仰、信条、意識、言説、芸術、価値、道徳、習慣、伝統まで、その意味する範囲が極めて広い概念としており、主に「人間の安全保障(ヒューマン・セキュリティ)」や「ソフトパワー」といった、いわゆる「非伝統的な安全保障」との関係に焦点をあてながら文化を考察する、とも述べる。また、文化的次元への感度やリテラシーの欠如が引き起こすリスクを鑑みるとき、文化と「セキュリティ」の関係はより広く、そして深く意識されるべきである、と述べる。

 ところで岩波新書の本書のカバーの見返しに印刷された宣伝文には、このように書かれている。
 「固有の文化とは何なのか?文化を政策に活用することの是非は?国内外の数多くの事例を紹介しつつ、観念論と政策論の双方の視点から、文化の新しい使い方、その危険性と可能性を考察する。」

 話しをもとにもどす。
 「文化」そのものの考え方をアップデートしておく必要があり、単なる具体的な政策論でもなく形而上の観念論でもなく、別次元で論じられるべきものでもない、シニカルで観念的な文化論、逆にナイーブに軽く考えられた文化論は、使い方において想像力に欠け、アカデミックな世界と現場の橋渡しがいる、と述べる。(同上)
 意味はそれほどわかりやすくない。

 冷戦後の「グローバリゼーション」を、市場経済の世界的波及、ICT・ユビキタスを指す概念としてひとまず捉えておく、と述べる。市場経済や情報通信技術は、モダニゼーション(近代化)の特徴であるから、現代はそれらの加速・拡張・深化・時間空間が圧縮されている時代であり、「スーパーモダン」としての「グローバリゼーション」である。さらにより高次のスーパーモダンをめぐる競争も激化している、と言う。(3~4頁)(傍点小生、以下同じ)
 それがどういう問題として現代に影響しているのかの図式はよくわからないところがある。

 一方、国民国家の文化的・制度的枠組みが揺さぶられ、その機能や権限の限界が出てきた。つまり<ポストモダン>の時代である、と述べる。(5~9頁)
 現代のグローバリゼーションは、スーパーモダンとポストモダンの二つのベクトルを有する。この動向に対し肯定派・楽観派と否定派・悲観派がいる。肯定派は歴史的・文化的文脈を無視した変革に進もうとし、否定派はナショナリズム・排外主義を懸念する。(9~16頁)
 これだけ立場が分かれていると議論が錯綜するはずである。

 つまりグローバリゼーション、市場経済の世界的波及と情報通信技術についての時間・空間の圧縮が生まれ、この状況は近代化(モダン)段階におけるスーパーモダンとして、また国民国家の枠組み・制度との関係対比ではポストモダンと捉えなければならない。そしてこれらに対し肯定派(楽観派)と否定派(悲観派)、また政治的にとらえての保守派とリベラル派においては、ことなる見方が出てくる、と述べる。

 このように肯定派(楽観派)と否定派(悲観派)、また政治的にみての保守派とリベラル派の間では、グローバル化の問題に賛否が互いに分裂し錯綜するという点を著者はあげている。しかし、グローバリゼーションに対する単なる賛否論や、これと独立しているとされる政治思考との関係について論じることは、それ自体可能としても評論的な説明に終るのではないだろうか。

 著者はまた、言語や教育、知的財産といった文化に直接関わる分野はもちろんだが、一見、文化とは無関係に見える政策課題も文化的次元(ないし含意)を有していることを忘れてはならない、と述べる。
 その通りである。また、以下のようなことも述べている。
 国家を否定することなく、かといって国家に拘泥するのではなくマクロとミクロのアクターを含めた、より重層的なガバナンス(統治)が求められている。(19~20頁)
 グローバルとローカルのそれぞれの中身を不変固有のものとして捉えることもしない。あくまで循環的かつ混淆的な過程と見なす考え方、グローカリゼーションを忘れてはならない。これは普遍主義の個別化、個別主義の普遍化の相互作用を指すことになる。(22頁)
 グローバリゼーションの負の側面をいかに制御し、正の側面を活用し、グローバリゼーションを飼いならし・・・・・・・・・・・・・・・・、持続可能なものにしてゆけるか。「文化」の「使われ方」に対する批判的な眼差しのみならず、「文化」の「使い方」に対する想像力が問われている。(40頁)
 グローバリゼーションを飼いならすことなど可能なのであろうか。著者のいう批判と想像の力で可能なのであろうか。

 以下さまざまの言葉と用語―
 格差の再編成(先進国と破綻国、中心と周辺など)、新自由主義の監査(オーディト)文化と消費者至上主義(低価格、雇用など)、精神・身体の市場化(製薬、精神疾患、貧困国医療など)、人間の安全保障<ヒューマンセキュリティ>(A・セン教授マイクロファイナンス、グラミン銀行)、文化のセーフティネット(プロテスタント根本派、教育の重要性、言語)、方便としての文化(文化多様性をリスク・コストではなく資産として)、文化相対主義の陥穽(文化的差異に中立、判断保留と傍観)、ソフトパワー(文化を競争力に使う、災害救助、平和構築)、パブリック・ディプロマシー<広報文化外交>(世論獲得、国際政治を構成主義・本質主義から文化人類学などの構築主義へ)、文化の境界線の編み直しetc、etcなんでも色々と述べられている。

(2016.2.27 記)