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1123号 「日本人の自伝」(今村均回顧録抄)

2016年03月07日(月)

 今村均いまむらひとし(1886―1986年)、第八方面軍司令官としてガダルカナル島の部隊撤退作戦に成功、ニューブリテン島に永久築城、同時に現地自治をおこなって、日本の敗戦のときまで、敵を寄せつけず健在した。戦後名が一般に知られるようになり、オランダ側の戦犯裁判において無罪、オーストラリア側に訴追された服役年限(禁固十年)を巣鴨で送るはずだったが、みずから志願して暑熱のマヌス島(パプアニューギニア)に赴き、三年五カ月の服務ののち、最後の一兵とともに日本に帰還。
 その戦闘指揮においても、また占領地の軍政においても、さらには敗戦時の出処進退についても、「名将」と呼ぶにふさわしく、その意味では、第二次大戦の日本陸軍において光芒を放つ、数少ない将軍のひとりである。
 ここに収録された『今村均回顧録』は、はじめ『私記・一軍人六十年の哀歓』(昭和45年
芙蓉書房)として出版され、『続・一軍人の哀歓』(芙蓉書房)がある。版権の関係で、ここに紹介されているのは、その限られた一部である。」(以上は、『日本人の自伝』の巻末にある村上兵衛の解説である。)
 以下はこの『今村回顧録(抄)』から、参考にすべきところまた応用して仕事に役立てるべきようなところがあったので、以下に要点を書く。執筆時からは時勢は大きく転換しているもののそのように感じたためである。(その部分が直接に参考になるという意味ではなく一読がいる。また標題は自伝に付されたままのものである。)

(健忘症の中隊長)
 兵営内の盗難騒ぎを、見習士官として真実を追求せずに穏便に済ましてしまった大きな過失についての反省(明治四十年 二十一歳で陸軍士官学校を卒業して、はじめて郷里の仙台第四連隊に着任した頃の話)

(特命検閲)
 ありのままに実況を上奏するという合理主義は一見正しそうだが、実はそうではなく最大準備をした上で素直に実情を応答することこそ大事である、と連隊長(大佐)に教えられる。
 ※「特命検閲」というのは、三、四年おきに各師団に対し、大将・中将などの中央部幕僚が師団長・各団体長の部下練成、整備、統御能力等を査察することを目的とするもの。この制度は軍隊の進歩向上のためぜひ必要であるとし、しかし後にはこの制度がだんだん濫用され軍隊はその応接になやまされる弊が生じた、とも回顧している。

(炊事当番兵)
 炊事当番の軍曹たちが新兵に意地悪をするのは、そこに劣等兵を割り合てていたのが原因であった。上・中・下位のものと等しく配置することによって改善した。

(板垣中尉)
 人格、識見においてすぐれ連隊の華といわれた武人かたぎの板垣征四郎中尉(のちの大将、戦争犯罪で巣鴨で刑死)から釈宗演禅師の本を借りて勉強する。しかし、興奮、拘泥の性癖がなかなか直らない。今村均は若い頃に板垣に心服し、師事したのである。

(大きな誤解)
 中隊所属の村の模範青年の下司官(軍曹)が、遊郭通いをしていると勝手に理解して注意をする。しかし実は不幸な境遇に落された妹を慰めにいっていたことを知り、のち誤解をわびてずっと文通をつづける。

(審判・鶏めし)
 天皇統監の特別大演習において、不満顔の連隊長に対して、攻撃不成功、旧位置に戻るべしと指示した審判官の宇都宮太郎少将(桂太郎の弟)の気魄とその他のエピソード。

(鴨と朝鮮馬)
 面白い話だが省略。

(正信偈・中道)
 巧言令色をきらい厳しいという評判の無愛想な師団参謀長(大佐)に、新米中尉として朝鮮の現地視察に同行する。そして一週間ほど過ごすうちに“人間のうわべと内心とでは、ひどくちがっていることもある”とさとる。また、母の手紙に教え訓されたとして、石川県出身のこの大佐は、入浴後にいつも正信偈を読む。

(鶏鍋・枕食い)
 昭和20~30年代の映画、二等兵物語にあるような奇抜な話だが省略。

(乃木将軍)
 明治45年の話。陸軍兵学教官の谷寿夫大佐(後の中将、「機密日露戦史」をまとめる)が、参謀本部の戦史は表面的でみつくろってあり役に立たぬ、真相を知りたいという要請をうけ、副官として仕えていた上原勇作元帥から聴き取りを代ってする話。日露戦史に関し乃木、児玉両将軍の戦功比較の如きはそれ自体が間違いであり、戦術戦略の能と徳の修養とは分けることなく一つであるという所見をもつ。軍隊統率の優秀と人格の高潔との関係をどう考えるかの問題である。「武将は、戦術戦略の研究と将に将たる徳の修養と、そのいずれの一つを欠いてもならない。」(上記自伝362頁)―司馬遼太郎の「坂の上の雲」の結論はこれとは異なり才能主義であるが、小説の出典の1つか。

(陸軍大学校入学)
 大正元年の頃。2回目の受験。4月に7日間の筆記試験、12月に十日間の再審口答試験、十日目は人物考査であった(ずいぶんと日時をかける試験制度であることを知る)。受験者120名中61名が合格。試験官の鈴木荘六少将(後の大将)からの後日談が書いてある―“とくに大難局におちいったときの全軍将兵は、統帥者の顔色だけででも戦況を心配したり、大丈夫だとの自信をもったりする。あの試験のときは、君はたしか、僕に欠点を衝かれ、顔色をかえてうろたえを暴露した。戦場ではおたがいに、相手の欠点を突きあうものだ。あのときのことを忘れんで修練をつみ、とくに戦時には、一段と注意しなけりゃならんぞ・・・”諄諄とこのように訓えた、と記す。(同上370頁)

(陸軍大学教育)
 当時の青山の陸大教育は、「教えざる教育」をやっていた。これはたれかれの別なく同じに教える教育をすると、物足らぬ生徒と、追いつけないで苦しむ生徒ができるのを防ぐためである。今でいう一種のディベート教育をやっていたようだ。今村均は「けれども、更にふりかえって、わが陸軍大学教育のやり方を考察すると、二、三の大きな過誤が存在しており、これが全陸軍に弊害をかもし出させ、お国のために、取りかえしのつかない災害を招くようになった原因の1つをなしていたことが、次のように反省せられる」(同上373頁以下)と回顧し、次下に陸大の欠点を挙げる。
 第一に、諸外国の幕僚教育機関は参謀大学であり、戦略戦術の研究と教育を行なうが、主眼目はどこまでも幕僚勤務の精神、すなわち将帥をいかに補佐し、その意図を軍隊に徹底せしむるかの、計画と事務処理との研究・教育に重点を置いていた。しかし陸軍大学はこれが第二義的になり、統帥研究を第一義としたため、将来の師団長や司令官の気位をもたせることになり、上級者に批判、蔭口、不満を示す者を生ぜしめるようになってしまった。
 第二の欠点は、補給、戦いの継続の兵站業務を考慮しての戦術戦略の学修がおろそかになり、場あたりの将棋的戦場のかけひき研究が多かった。「これが大東亜戦争に於て、補給可能の限度を越え、無制限に戦面を拡大し、最もいましめなければならない兵力分散を極度にし、幾十万将兵を戦火によるのではなく飢餓に斃れしめるようなことにまでした原因だったと思われる。」(同上374頁)
 第三の欠点は、教官の選任が、その一部ではあったが適当を欠いたことである。大部分は知能人格の高い者が選ばれていたが、幾人かは、一般に敬遠される人物、豪傑肌の気取り屋、他の部門で使いにくい者をあて、放漫な気分を発生させ、青年学生はこのような少数教官に引きつけられる傾向があったこと。
 「かような陸大教育を卒業した者で、中央三官衛の幕僚を充足せしめた結果、もちろん一部の者であったが、海外軍司令部幕僚の一部と気脈を通じ、不羈の策動を試みて、軍と国家とを煩らわし、いわゆる『中堅幕僚の専行』とか、『下剋上』とかの非難を世に叫ばしめるようなことにした。私のようにこの学校の軍制や兵棋の教官をやり、又満州事変の時、切実に陸大教育の改善を痛感しながら、敢えてこれを促すような努力をいたさなかった者は、何とも相すまなかった自責の思いに打たれる。」(同上374頁)

(大正天皇の御前講演)
 陸大三年教育の卒業試験は、三週間の野外演習である。しかし、指導官と張り合い、また臨場の大学校長から、首から上の姿勢を三度まで正される(実際は心のまがりを直す目的で注意されたらしい)。落第覚悟でいると、大正天皇の御前で卒業式に講演(講演は暗記して40分間)申し上げるように言いわたされる。

(佐々木一等兵の銃剣術)
 のろま牛とあだなされた鈍重な兵卒が、剣術がまずく目をふさいでしまう。そこで逆に、千葉周作が茶坊主に教えたという故事にならい、“目をつぶったまま、対手がいると思う所に、唯まっすぐ銃剣を突きつける”ことだけを教えこむ。結果、目つぶりの直突一本で全勝するという、まるで時代小説のような実話である。

(軍隊内務令)
 軍務局の歩兵課長として内務令の根本改正を目ざそうとするが、かつて内務令を作り上げた田中義一参謀次長(当時)のところで引っ掛かる。荒々しく詰問、拒否されるが、意外なことに直後、至急改正ありたしと書類に朱筆されて承認される。
 「中央官衛のお役所仕事の中にはいり、いかにも不快に感じた点は、他人や他課の作った案には、何か文句をつけなければ、沽券にかかわるような心がまえの一言居士が実に多いことと、外形整備にこだわり、軍隊将兵の不便を考えない者の少なくないことだった。」(同上399頁)
 これは陸軍用語でいう関係部局課の「連帯承認」についての不満である(われわれの時代における「稟議決裁制度」のことか)。

(増援要求)
 「簡閲点呼」の視察計画書(18師団分)の様式を不揃いなまま提出したことに対し、上司の歩兵課長と高級副官・大佐(陸軍省の官房長に当る)の間で作り直し要不要の喧嘩が起る。いっこく者のカミナリ大佐から、体験談として旅順攻囲中にすぐに増援要求をする旅団長と逆に予備隊を救援にさし出す旅団長がいたとの話をきかされ、「実によい戦史上の教訓」をいただいたとして徹夜作成すると申し出たために、真意が通じ仲直りができた話。
 ※「簡閲点呼」とは、師管内の陸軍在郷下仕官を、その居住地から十二粁以内の便宜の土地に集め、師団長により命ぜられた点呼執行官が、一日約三百名の健康状態、軍人精神、軍事能力保持の程度を、簡易の行事により、検閲する制度である、と今村均は説明を加えている。
 文部省唱歌(明治45年、1912年)『冬の夜』の二番<囲炉裏のはたに 縄なう父は 過ぎしいくさの手柄を語る 居並ぶ子供は ねむさ忘れて ・・・>などは、その時代の気分をごく普通に唱っていることを知る。また、『里の秋』(昭和20年12月24日NHKで放送 斎藤信夫・作詞、海沼実・作曲、川田正子・唄)の<静かな静かな 里の秋 ・・・>ではじまる三番<・・・お舟にゆられて 帰られる ああ父さんよ 御無事でと・・・>も、時代は三十年余の後ながら同種の噴囲気を示しているものではないか。(2016.3.12 追記)

(妻を娶る)
 大正5年(1916年)30歳。

(千田登文のりふみ翁)
 岳父の千田登文は、石川・前田家の出、西南の役に参加し、乃木連隊長(乃木将軍のこと)を守り、また南洲翁の首級を探しあてる。この千田翁は、明治三十年頃に北陸地方に更に一個師団が増設される際、福井に設置がほとんど決まっていたのを、「良い水の沢山ある処」として乃木将軍の力で変更した話しが書かれている(残念)。

 以上が『今村均回顧録』を読んでの備忘のための雑録である。最近ある機会に、今村均陸軍大将はどのような人であったかの評判を防衛省の事務次官経験者におききしたところ、「名将」というよりも「聖将」と称されているとのことであった。
 ところで、こうした軍人の伝記をどうして読む積りになったかなのであるが、読むに値するとの文章をどこかでみた印象からではなかったかと思うのだが、それが何処で見た誰の文章であったか忘れてしまった。この一年の良書といった新聞特集にも載っていなかった。
 そしてこの自伝を一読したあとのことであるが、鞄の中に書類と一緒に挟んだままであった古い新聞を見つけ、そこの書評に書いてあったことを発見した。
 比較文化史家の平川祐弘ひらかわすけひろ・東大名誉教授の『この本と出会った』という産経新聞(平成28年1月17日(日))の書評欄の記事である。その要点は次のようなことである。
 「敗戦後、日本人は自国に自信が持てなくなった。とくに国を滅ぼした陸軍の将官は軽蔑のまなざしで見られた。だがそんな時期に『この本と出会えてよかった』と深く感銘されたのが今村均陸軍大将の自伝である。内実に富み細部が語られていたからだけではない。このような日本人がいたことが有難かったのである。」
 「平成の若者は昭和の軍人だからといって毛嫌いしてはならぬ。幹部学校進学者が『今村均回顧録』を読まされることを私は切望する。実は本書は高校生が読んでも心打たれる。思いやりに富む市井の人情話にも富んでいる。」
 「誰か西洋人の日本研究者で英訳する人は出ないものか。」
 などと平川先生は論評をしている。
 私見ながら最近なくなられた阿川弘之は、海軍の伝記小説をたくさん書いているが、陸軍も書き残して欲しかったと思う。しかしこの回顧録はそのままですでに小説になっている。
 なお、「日本人の自伝」は平凡社版による全25巻シリーズであり、その中の本書は、鈴木貫太郎すずきかんたろう今村均いまむらひとしの二人の自伝を内容とする第12巻目(1981年出版)である。題字の「日本人の自伝」はなかなか味合いのある筆致と見えたが、宮川寅雄(1908―1984年)という人の書になり、会津八一に師事し「岡倉天心」という著書もあるという。

(2016.2.28 記)