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イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1122号 パンセ(1089号、1098号及び1112号からの続き、上巻の終り)

2016年02月24日(水)

断章271から
 「イエス・キリストがなしたことは、ほかでもない、人々にこう教え諭すことだった。人間は自分自身を愛して、隷属、盲目、やまい、不幸に陥っている。そういう彼らを解放し、開眼させ、幸せにしいやさなければならないが、その実現は自分自身を憎み、苦難と十字架の死の道を・・・(後略)」
 訳注には、「自分を憎む」とは、自分のうちにある欲心、不正、悪を憎むことである、という断章220の注を参照せよとある。

断章272(表徴)から
 「神の言葉は真実である。字義どおり取ると偽りなら、それは霊的に真実なのである。」
 「私の右に座せ」というのは、神があたかも人間であるかのように表現して、神の抱くであろう意図を表明しているのであって、その実行の仕方の表明ではない、云々と追記されている。

断章273から
 「驚嘆すべきは、ユダヤ人を予告された事柄の大いなる愛好者とするとともに、その成就じょうじゅの大敵としたことだ。」
 ユダヤ人たちで信じていない(ものがいる)という拒絶こそ、他の人たちのむしろ信仰の基礎だ、とその前の箇所で述べている。

断章274から
 「だからすべては、預言には二つの意味があるかどうかにかかっている。」
 神秘的な解釈が要求されることになるのか。

断章286から
 「それぞれの宗教に二種類の人間がいる」
 肉的、卑俗なユダヤ人・キリスト教徒に対し、霊的な、真のユダヤ人・キリスト教徒。

断章290から
 「人間があれほど長生きした時代には、子供たちは父親と長い間、一緒に暮らしていた。父親は長い間、子供相手に話をした。ところで話といっても、自分の先祖の歴史の他に、何を話すことがあっただろう。あらゆる歴史は先祖の歴史に帰着するのだし、勉学も学問も技芸も持ち合せていなかった彼らには、世間の会話の大部分を占めるそれらの話題には無縁だったのだから。」
 聖書において族長たち(統率者)がきわめて長寿であった意味は、人々が先祖の歴史と系譜をとりわけ大事にしていたからくることだ、とパスカルは語っているが、パスカルの言い方自体も一種の物語的な比喩であるか。

断章292から
 「どうしてモーセは、人々の寿命をあれほど長く、世代の数をあれほど少なくしようとするのか。なぜならものごとの記憶があやふやになるのは、長い年月が経つからではなく、多数の世代が過ぎ去るからだ。なぜなら真理が変質するのは、ただ人々が交代することによるのだから。」

断章298から
 「聖書に秩序がないという反論に対して。心には心の秩序があり、知性には知性の秩序がある。知性の秩序は原理と証明からなる。心には別の秩序がある。愛の原因を理路整然と並べ立てて、だから私が愛されるべきだと言ったところで、証明にはならない。そんなことをしても滑稽なだけだ。」
 キリスト、聖パウロ、あるいは聖アウグスティヌスにおける秩序は、知性のそれではなく愛の秩序であり、彼らは教えるのではなく暖めようとしたのだ。この秩序の要点は「脱線にある。つねに目標を示しつつ、目標に関わる各論点についての脱線だ」と続いている。

(2016.2.19 記)

断章308から
 「身体は精神から無限に隔っているが、その隔りは、それをさらに無限に越える精神と愛との無限の隔りを象徴している。なぜなら愛は超自然的なものなのだから。」
 訳注によれば、この章は三つの秩序ないし次元(order)を語っているという。人間の身体を基礎とする物質界、人間知性の領域である精神界、愛の領域である超自然界の三者。パスカルは数論のなかで「点は線に、線は面に、面は立体に何ものも加えない。・・・根は平方に、平方は立方に、立方は平方自乗に何ものも加えない」と述べている。

断章309から
 「イエス・キリストは偉大な事柄をあまりにあっさり語るので、考えなしにそうしているように見えるが、他方あまりに明確に語るので、それについてどう考えていたか、はっきりみてとれる。この自然さと明晰めいせきさの結びつきが驚異的なのだ。」

断章311から
 「このユダヤ民族が、これほど長い年月の間存続し、しかもつねに悲惨であるのは、驚くべきことであり、格別の意味を払って考察する価値がある。」

断章315から(偉大な証人ダビデ)
 「彼に虚栄心があったら、自分がメシアだと名乗るだけでよかった。なぜなら預言は、イエス・キリストより彼のほうに、明瞭にあてはまるのだから。―そして聖ヨハネについても同様である。」

断章316から
 「完璧な英雄の魂がいかなる特性を備えているかを、福音書記者たちに教え、それをイエス・キリストのうちに完璧に描き出すように、誰が仕向けたのか。そして彼らは、苦悶くもんのうちにあるイエス・キリストを弱い姿で描くのか。彼らは、沈着な死を描くすべを知らないのだろうか。そんなことはない。同じ聖ルカが、ステファノの死を、イエス・キリストの死よりももっと毅然とした姿に描いているのだから。だから彼らは、イエス・キリストを、死が不可避となるまでは、恐れを感じることができるものとして描いたのだ。そしてその後は、まったく毅然たる姿で。」
 この辺りの解釈を、ヒルティは「キリストの福音」(1910年)の中で、キリスト教は決してストア主義でもなければ、石の心をもつものではない、と注解している。

断章317から
 「信仰の目で眺めれば、ダリウスとキュロス、アレクサンドロス、ローマ人たち、ポンペイウスとヘロデが、それと知らずに、福音書の栄光を輝かすために働いているのが見える。なんと美しいことか。」

断章332(預言)から
 「一連の人間たちが、四千年来、つねに変ることなく、この同じ到来のことを入れ替わり立ち替わり予告しにやってくる。ある民族全体が、そのことを告知し、四千年来存続しては、一丸となって、彼らがその到来を確信していることを証言している。そしていかなる脅迫や迫害を加えられても、そこから気持をそらせることができない。これは、はるかに注目に値する。」
 この事をたった一人の人間が行ってもそれだけで無限の力であるのに、全体の人たちが継続して実行してきた驚異を述べている。

断章351から(ここから<ファイルA26>キリスト教の道徳)
 「キリスト教は奇妙千万だ。人間に、おのれが卑しくまたいとわしくさえあることを自認するように命じながら、同時に、神に似るように欲することを命ずるのだから。このようなバランスなしに持ち上げられれば、人間は恐ろしく高慢になるだろうし、貶められれば、恐ろしく卑屈になるだろう。」
 みじめさと傲慢、卑下と聖性、死と生、不幸と幸福。

断章354から
 「人間にとって最もふさわしい教えは、これだ。人間が恵みを受け取ることも失うこともできる二重の能力を備えているのは、彼が欲望でなければ傲慢に陥るという二重の危険につねにさらされているからだ。」

断章359から
 「英雄的な死を遂げたスパルタ人やその他の人々は、私たちの手本とはならない。それは私たちをほとんど感動させない。じっさい、それが私たちに何をもたらすというのか。しかし殉教者たちの死は、私たちの手本であり、私たちを感動させる。彼らは、私たちの体の部分なのだから。私たちは、彼らと共通のきずなで結ばれている。」
(4)We have many parts in the one body, and all these parts have
different functions.

(5)In the same way, though we are many, we are one body in union with
Christ, and we are all joined to each other as different parts of one body.

(Paul’s
Letter To The Romans §12)

断章365から
 「経験は私たちに、信心と善良さの間に非常な違いがあることを教えてくれる。」
 訳注によれば、これはモンテーニュの言葉に由来がある。

断章370
 「手足が幸福になるようにするためには、手足が意志をもち、それを体全体に合致させることが必要だ。」
 訳注は、この章のテーマである「キリスト教の道徳」において、信者は孤立した存在(考えるあしではなく、ある全体の部分(考える手足)である、とパスカルの意図を説明している。この訳者の表現は、真実とユーモアをふくんで面白い。
 <次の断章371には「考える手足が集まって出来上がった体を想像してみるがよい」とある。やや前の断章360(道徳)には、「考える手足というのは、私たちの手足は、相互に結びつき、見事に協調し、自然が丹精こめて送り込んでくれる精気によって成長し、維持されているが、その幸福を感じることがないからである。手足がそれを感じ、それを見ることができたら、彼らはどんなに幸福だろう。しかしそのためには、それを知るための知性を、そして全体の魂の意志に同意するための善い意志を、手足自身が備えなければならないだろう」と書かれた箇所がある。なお、この部分の訳注に、「手足」の原語はmembres、英語のメンバーと同義であり、身体の手足・部分、あるいは集団を構成する部分、の両方の意味があると解釈が付されている。/span>
 現代において「幸福論」を展開するには、個人が一個人としてのみならず、全体の中のメンバーであるという観点が有効かもしれない。

断章372から
 「自分が体ではないことは感じていても、自分がある体の手足であることが見えないからだ。ついに手足が自分を知るにいたると、あたかもわが家に立ち帰ったかのように、もはや体のためにしか自分を愛さず、過ぎた日の過ちを悲しむ。」
 この引用部分をふくめ本断章は、キリスト教世界以前の異教徒であるストア派のエピクテトス、M・アウレーリウスの考え方に通じるものがある。
 例えば、「おお宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する(第4章―43)」、「自分自身の自然と宇宙の自然に従うがよい。この二つのものの道は1つなのだから(第5章―3)」に近似する。<アウレーリウス『自省録』から>

                                         (以上で上巻の抜萃終り)

 ブレズ・パスカル(1623―1662年)の著作は、死後8年を経た1670年に「死後書類の中から見出された宗教および他の若干の主題に関するパスカル氏の断想」として、遺族と友人たちの手によって世に出ている。これは『ポール・ロワイヤル版』といわれ、パスカルの残した書類のすべてからではなく、それらから取捨選択されたテーマ別の配列によって作られた。出版ののちは彼らの危惧を裏切りさらに期待をはるかに超えて、一世紀以上にわたり読み継がれるロングセラーとなる。
 その後、啓蒙主義の時代にはヴォルテールなどの批判にさらされるが、以後かえってその評判を高めることになる。フランス革命を経て、シャトーブリアン(1768―1848年)などによるキリスト教復興の機運の中で再評価され、さらにヴィクトール・クザン(1792―1867年)によるフランス・アカデミーに対する新版の編纂の必要性の訴えなどがなされ、その二年後の1844年にはプロスペル・フォジェール(1810―87年)がパスカルの構想を再構成する方針の下に、最初の近代版を手紙・小品をふくめ断簡零墨にいたる遺稿を全集版として刊行する(『フォジェール版』二巻)。
 その後、二十世紀前半までに刊行された版の数は主要なものに限っても十指に及ぶ。
 『シュヴァリエ版』(1925年)のようにかなり普及したもの、『カプラン版』(1982年)のように近年のものがあるが、いずれもパスカルの意図を再構成する方法をとったものである。
 一方、『アヴェ版』(1852年)、レオン・ブランシュヴィック(1869―1944年)による『ブランシュヴィック版』(1897年)のようなすぐれた版は、1つ1つは文脈から切り離されているが、テーマ別になっておりアンソロジー的な読み方に適していたので、優れた注釈とあいまってアフォリズム集として成功した。
 その後、パンセ編纂の第三の波として、二十世紀中葉から文献学的研究が進んだ。この動きはなお続いているが、パスカルの遺稿・写本を科学的に調査し、できるだけ客観的にありのままの形で再現する編纂方針のものである。この系統のものには在野の研究家たちであるザカリー・トゥルヌールによる『トゥルヌール版』(1938年)、あるいはルイ・ラフュマ(1890―1964年)が編纂した『ラフュマ版』(初版1951年)である。ラフュマはパスカル全集(1963年)を編集し、これに収録した第一写本を底本にした画期性のある版を改訂を加え刊行した。
 なお、この系統にはミシェル・ルゲルン(1937年~)による『ルゲルン版』(1977年)がある。
 これに対し第二写本に優位を唱えてこれに依拠したフィリップ・セリエ(1931年~)が『セリエ版』(1976年)を刊行している。今日のフランスでは『ルゲルン版』と『セリエ版』がペーパーバック化され、普及が拮抗して重版化もされている。また『セリエ版』については、セリエとジャン・メナール(1921年~)の後を継いでソルボンヌ大学でフランス17世紀文学の講座を教えるジェラール・フェレロル(1949年~)が優れた注釈版を刊行している(2000年)。
(以上は、本書の訳者である塩川徹也氏の巻末解説―「『パンセ』とはいかなる<書物>か」から編纂の歴史を要約したもの)
 なお、訳者の高齢の恩師であるというメナール先生は、未だ『メナール版』を刊行していないということであり、その出版を期待しているという。未発刊の『メナール版』パンセが、おそらく『ラフュマ版』を踏襲した新知見の版になると訳者はみており、本訳書はこの『ラフュマ版』とほぼ同じ構成をとったと記している。
 なお手元にある中公文庫「パンセ」(前田陽一、由木康訳 昭和57年版)は『ブランシュヴィック版』によっている。初めての読者には最もとっつき易いからだ、というのが理由であると巻末に書かれている。この中公文庫版の訳文は、いかにもパスカルの時代らしい感じが出ていて味わいがあるのだが、本訳書の塩川徹也訳「パンセ(上)」(2015年岩波文庫)を一読して、こちらの方が訳注も充実しており、読みやすくわかりやすく感じる。研究が進んだためではないかと思われる。

(2016.2.21 記)