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1120号 司馬遼太郎の言葉(日本とアジア)

2016年02月19日(金)

 司馬遼太郎はおそらく沢山の資料や書物を読み、専門家と会い、ものを考え小説を書かれたのであろう。大阪の司馬遼太郎の記念館にゆくと建物の壁は天井まで書物だらけである。さらに自身の実戦経験もあって、日本の戦中史については比較的公平な見方をしていると言われているようだ。前号では史観の基本構造を見ようとしたが十分とはならなかった。今回は用語についてたとえば、情報、普遍性、住民(人民)、競争etcの言葉をみてみることにする。

(情報について)
 「要するに、日本人はスパイや謀略者に向かない。もっと基本的なことをいえば、現実は何だという認識能力が、こんな単一民族の国では育たないですよね。バルカン半島に日本があれば、もっと僕らはリアリズムをつけた知能を持つことができるけれども、情報々々と言ってるけど、ほとんど曲がったものでしょう。」(司馬遼太郎対話選集第五巻「日本の侵略と大陸の荒廃」1976年
陳舜臣と 138頁)

 「情報というのは、見なくてわかる能力だから、情報を受けるには、たいへんぎすました認識能力が必要になる。情報なんていくらでもくるから、結局、受け手の問題ですよね。日本人は受け手の能力に欠けた民族なんやろな。・・・民族の癖というのは直らないから、いまも似たようなことを繰り返しているはずです。」(同139頁)
 情報については、たとえば『インテリジェンスの最強のテキスト』手嶋龍一、佐藤優著(東京堂出版2015)を読むと、その中にインテリジェンスの基本論及び方法論が述べられている。
 ―インテリジェンスの究極の目的は、『戦争に敗北して、国家を喪失しないこと』である、ウサギは鋭い牙を持たないゆえに長い耳をそなえて遥か彼方に芽生えた危機をいち早く察知し身を護る、米国は軍事力が突出して優位なので正しいインテリジェンスを欠いても究極目的を達成できる、アメリカの情報に依拠追随する幸せな環境はすでに失われようとしている、国際基準のインテリジェンスの王道はシギント(科学技術力による)ではなくヒューミント(人によるインテリジェンス)であるetc―
 広い意味でのスパイ活動は冷戦期より現代がさかんらしい。情報に疎いのは日本人の生まれながらの癖なのか、それとも日本人の置かれた環境のせいなのか、事実への関心よりも想像力の方が発達しているのが日本人なのか・・・。

(普遍性を身につける)
 「僕は何も中国贔屓びいきとか、そんなんで言ってるんじゃない。日本人を救う方法として言ってるわけでね。日本人を救う方法は普遍性を知ることであって、普遍性を知る手近な方法は中国を知ることかもしれない。アメリカやフランスも普遍性は多分にあるわけですよね。ところが、アメリカ、フランスという文化で眩惑されてしまって、普遍性がよくわからなくなる。それよりも中国の庶民をみてたら、それでいい。インテリを見ずにね。それが日本人には永久にわからないかもしれないけど、これがわからなかったら、日本は自滅するな。いよいよ世界は普遍性を帯びてゆく。むろん一面では世界は逆に国家時代になってるけどね。小国がいっぱいできて。だけど、それは内在的に普遍性が進行しているわけだから。それがわからなかったら、やっぱり自滅するのと違うかしら。ほうぼうで嫌われてね。」(「近代における中国と日本の明暗」1975年 陳舜臣と 同94頁~95頁)
 「『住民』ということ以外のレベルで、つまり民族論や国家論だけのレベルで他の国をみると、ずっと失敗しつづけたように、今後もそうなるな。あたりまえのことなんだけど、われわれ日本人にはむずかしいことなんです。」(同96頁)
 日本人は普遍性を、海外にしかも主として書物の中で求めようとしてきた、と司馬遼太郎は言っている(同168頁)。また中国の今(対話は1970年代のこと―拙註)の新しい国家は、日本とちがって普遍性をもっているなどとも発言しており、必ずしも「普遍性」や「住民」の概念が明確でないままで、あちこちに話が展開している。
 同様なタイプの議論を萩原延壽(歴史家1926―2001年)との間でも行っており、萩原も「日本人に向ってこれからは原理を持て、というのは無理な注文だと思うんです。日本は宗教的な伝統ばかりでなく、もともと原理を生む基盤のようなものがありませんから。しかし、これからは、福沢のいう『独立の精神』を持たないと大変でしょう」と司馬遼太郎に応じている。(司馬遼太郎対話選集第二巻―歴史を動かす力「日本人よ“侍”に還れ」1972年 403頁) ― 一度この選集を読んでいることに今日気づいた。<858号>(2016.2.18 記)

(近代化前の日本・朝鮮の地域性)
 「朝鮮の場合、国家体制というのは単一化していたわけでしょう。日本みたいに藩に分かれていなかったことも一つは不幸だったと思うんです。藩というのは一つの団結の単位ですから、そういうものがなかったでしょう。・・・北のほうで、あるいは中部のほうで引き継いでやるというようなことはないですね。それでいつの間にか終っちゃう、ということになる。」(対話選集第五巻「風土と習俗」金達寿の発言 179頁~)
 東学党の乱で、和約ができて農民がいったん引き揚げると、朝鮮政府は農民軍を裏切って清軍を国内に引き入れる、日本はその機会を待って朝鮮出兵に至るという歴史(東学党反乱の失敗)について、上記のように金氏が述べているのである。日本の幕末維新期は、各藩(地方)が独立した形で中央に対し倒幕運動したという差異の重要性を強調している。しかし日本が幕末に分権的であったことだけを理由にすると、中央集権化していたアンシャン・レジームのフランス革命の説明と合わない、また朝鮮が単一体制だから自力ですぐに近代化できなかったというのも一面的なところがある。
 「朝鮮では一元的な価値観しかなかったですから、弱いわけですね。日本は藩の単位で他藩と“競争の原理”が働いた。だからいかに生産力を上げるかというのが善政だったわけでしょう。ところが朝鮮の場合の善政は、赴任してきた官僚が、搾取を少なくしたら善政なんだな。」(同金達寿180頁)
 「元来、藩というのは商業資本的な性格をもっていたのですが、江戸時代の中期ごろから各藩ともさらに産業化しようとした。藩の経営思想と町人の経営思想とあまりかわらなくなっていたということですね。」(同上 司馬遼太郎の発言 180頁)
 「地域競争」の観念は、この一、二年の地方創生政策における国主導による考え方にも形を変えて再現している。各地方に国が求める観光やブランド化などの産業戦略がこれと表裏一体となっている。
 「それともう1つ面白いのは、津和野とか宇和島藩とか小さいところは、競争できないから学問の水準をあげようと思った。大藩よりもかえって学問がよく発達するということがあったんですね。」(同頁)
 「農村、漁村で僕が知っているのは主に西日本ですが、それでいうと、寺の数の密度が濃い村ほど行儀がよくて勉強がよくできる。いまはやりの言葉でいうと、厭な言葉ですが、偏差値が高い。四国でいうと、愛媛、香川、徳島、とくに愛媛と香川が偏差値が高い。そして高知は、伝統的に寺の数が少ないところなんです。」(対話選集第二巻「子弟の風景」1985年
大江健三郎と 312頁)

 現在の各自治体における子供達の学力・体力の水準と自治体の規模や寺院の数とがどんな関係の議論になるのか、面白いテーマである。
 「東京出身の漱石が『吾輩は猫である』を書いた時期まで、東京出身の作家は言文一致で書き、地方出身の作家は美文で書いていました。森鴎外も晩年まで大いに文語体で書きました。こういう細かいことを言ってきますと、われわれの中にも軽度の民族問題があったことがわかりますね。」(対話選集第五巻「地球時代の混迷を超えて」1995年
梅棹忠夫と 385頁)

 司馬遼太郎は開高健との対談で「東京という普遍性が目ざわりのあまり、たとえば秀才は東京にいくな、京都や大阪大学だけでとどまってもらいたい、と願ったりする。私もその一人です。」と言っている。(同166頁)

(歴史を相対化する視点)
 「金『日本人をみてきましたが、日本人はいつも一種の自己否定で、日本人はだめだとか何とか言ってきた。―たとえば、戦後、特にいろいろ出ましたね。日本人はまだ十二歳といわれたとかで、それで日本はだめだと。そういう伝でもって、つまり外に誇るというか、本当は尊大というものを持っていながら、少くとも知識人となると、表にはなかなか出さないわけです。それで気がついてみたら、いまや経済大国になってるわけだ。』
 司馬『それで、自他ともにうろたえる。』
 金『そういうことになる。だけど、朝鮮人は、発想が逆なんです。日本人のような、そういう自省というか、自己否定というのを一切やらない。いつも尊大なんだ。これがだめなのよ。だから、いばることはするけど、反省するということはめったにない。』」(対話選集第五巻「近代への足どり」金達寿と司馬遼太郎241頁)
 日本も韓国も歴史を相対化する考えができない、侵略に抵抗したという発想だけでなぜそういう事態になったかの自己追及の動きがない問題点を、陳・司馬の両氏が談じているのである。しかし司馬遼太郎は、この点をどう解決すべきかについては非常にむずかしい問題であるとして議論を止めている。
 日本の「反省主義」は主観的に過ぎる、韓国の「抵抗史観」は客観的過ぎて、双方ともいわゆる中庸を得ていないと言うことになる。
 朝鮮と台湾に対する日本による戦前の支配のちがいについて、別の対談で次のように論じている。
 「司馬『・・・韓国は独立国だったのを支配してしまった。これは恨みになる。台湾は多分に雑居地だったから、面倒見のいい政府がやってきてくれたからよかった。よく朝鮮人と台湾人は違うと説く人がいますが、それは違います。歴史的に見て違うのです。』
 梅棹『日本の台湾統治は非常に合理的で近代的植民地政策でしたが、朝鮮の場合は軍事支配です。なぜ朝鮮が軍事支配になったかというと、背後にロシアがいたからですね。』
 司馬『日本近代史をおおいつくしているのは、ロシアの南下への恐怖ですね。』」(対話選集第五巻「地球時代の混迷を超えて」1995年
梅棹忠夫と司馬遼太郎386頁~387頁)

 司馬遼太郎はふたつの国に起った現実が、民族性によるのではなく歴史的な国家構造の差によるとしており、梅棹忠夫は国際関係(対露)のちがいだと言っている。

(日本人には言語の格闘術がない)
 「自分を説明しない民族というのは、日本人だけでしょう。自分という者は、こういう思想や原則をもち、こんな意見をもっている、そういう自分がこういう目的であなたに会いに来た、一番重要なのは、君と私との間に利益の一致点を見出すことだということを、きちっと歴史的に現実的に、そして魅力のあるレトリックを使って説明するということをしない民族です。われわれは、そういうことをするのは野暮でいかがわしいと考えている。・・・」(同「民族の原像、国家のかたち」1992年
梅棹忠夫と 367頁)

 「そうですね。日本文化というのはやはり孤立して発達した、あるいは閉鎖体系の中で熟成した文化ですからね。ほかの異質なものとの対決を、ほとんど経験していない。だからそういう技術が発達していないんです。一種の言語的格闘術といいますか、論理武装といいますか、そういうことが本当にできない。」(同頁 梅棹忠夫の談)
 1990年代なかば頃から「説明責任」という用語が輸入されて、やがてメディアそして政治家の一部で使われ、一般用語になってきた。しかしこの用語および観念はすこぶる日本人になじみにくく、実際は謝罪行為の代名詞になっている。日本ではそのような契約的な訴訟的な用語が通用する外形中心の社会ではないからではないか。

(2016.2.7 記)

 ここでもう一つ「フィクション」と「歴史」という用語を追加する。以下は長いので中略して引用する。(傍点―小生)
 「司馬『(前略)私は思想を形成する核として、リアリティのある核じゃなくて、フィクションとしての核・・・・・・・・・・・が必要じゃないかと思うんですけれども。(中略)それは松陰の思想が形成される場合には天皇だろうと思うんです。その天皇というのは、具体的な存在というより極度に形而上化された、極度に純粋化されたフィクションとしての天皇を据えて、思想を形成せざるを得なかった。その意味での天皇を考えるべきで、明治以降の、例えば、とくに山形有朋を推進者としてできあがった天皇制というものから逆算して、松陰の天皇制を考えるのは松陰にとって酷です。』
 橋川『酷だし正確でもない。ある歴史的な人間を評価する時に、そういうふうにさかのぼって解釈を押しつけられても、肝心の本人が自分のこととは思わないはずです。にもかかわらず、松陰の場合は明治以降のイメージが強いでしょう。どうしてもさかのぼっていくと、天皇制の原点は松陰ではないか、とすれば認めることはできないというふうになる。(後略)』
 司馬『(前略)天皇というフィクションをわれわれは高く評価しなければいけないと思うんです。後世の感覚で、後世の生臭さで感じちゃいけないと思う。私は歴史的法則で物を見るというのは苦手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・な方ですし、松陰における天皇の問題については非常に無感動にそれを受け止める方なんですけれども。』」(対話選集第二巻 「吉田松陰の資質と認識」1973年
橋川文三(政治学者1922―1983年)と 270頁)

 この対話選集第二巻の方はタイトルが「歴史を動かす力」であるが、ここでは司馬遼太郎は小説の外でも「歴史離れ」をしている。
                        (司馬遼太郎対話選集第二巻 文藝春秋 平成14年
同第五巻 平成15年)

(2016.2.15 追記)