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イッセイエッセイ

1116号 素朴やいずこ(文明と素朴)

2016年02月15日(月)

 素朴な民族も文明に浴し始めている間は、大いに勢力が伸びてゆく余地があるのだが、やがて文明そのものに毒されるようになれば停滞や退廃が起こり、民族としての起死再生もかなわなくなる。そして素朴だった天質がさいごには古い文明と化してしまい、別のところから勃興してくる新たな素朴の集団に取って替られる運命となる。
 中国の歴史を考えるとき、このような「文明社会」と「素朴主義」という二つの性質をもった力が、歴史的な対決と交代のドラマを展開している、と見るべきとの意見を明らかにしたのは、東洋史家の宮崎市定(1901―1995年)である。そうすると、中国大陸における諸民族の興亡の歴史も、中原と辺境、文明と野蛮の暴力的なせめぎ合いの繰り返しにすぎない、といった単純平俗な見方にはならないことになる。
 さて、このような文明と素朴をめぐる抗争と逆転の歴史構造が、時代を下って今なお何処かにその名ごりの影をとどめていないかという問題提起は、こうした視点の有効性を測る上でも意味をもつことになる。そこで仮に有りとせば、現代日本の東京と地方の間で、このような関係が認められないかという仮説を立ててみた。しかしこの筋に沿って現実に論理を展開しようとすると、そう簡単にはこうした図柄を都市と田舎の間で描くことはできないことを知るのである。
 そこで一つ余事ながら廻り道をすることにした。以前にも書いたことがあるが、「この国のかたち」などにみられる司馬遼太郎の日本人論やアジア史の観点が、どこかこの宮崎史観に通底するところがあるのではないかと独断ながら感じることがあるので、その方面からヒントを捜してみようと思うのである。
 最近、司馬遼太郎の対話選集(第5巻「アジアの中の日本」)を通読した。さまざまな個別の史実や人物評価、社会事象の因果の見立て、博覧雑学に至るまで、読むことにより学ぶところは多いものの、その元の背景となる学問的な確信なりが、そもそも何処から由来するのかが改めて気になるのである。その種の見解は作家による膨大な資料研究、そこから付随的に生まれる雑学や断片の集合ではないはずである。司馬遼太郎がアジアの文明や歴史を論じる際に、基底となったいくつかの根本となる文献が、一体どういうものだったかという想像上の詮索なのである(278号、1064号参照)。文筆家は、自身の議論の構造や概念、用語などを先人から得ながらも、それが基本となるものであればあるほど、背後に韜晦させる習慣があると感じることが多い。たとえばパスカルなどの有名な著作であっても、結局のところその思考方法は純粋なオリジナルではなく、他の先行する作品から源泉を得ており、さらにそれらを評論する後代の凡庸な著作の類は、名作や大家どおしの諸関係の学問的な究明にすぎないことを発見するからである。
 話しをもとに戻す。宮崎史観の一般理論と司馬遼太郎がさまざまなところで論ずる考え方の基本となる部分に、どこか共通性がないかを調べてみることにした。
 宮崎市定が呈示した「素朴」と「文明」との歴史的概念を言うならば、この対話選集には、文明や文化という言葉は沢山すぎるほど出てくるのだが、一方、素朴という言葉はこれを捜しながら通読してみてもたった一度しか出てこない。どうもこちら側の見立ての方が、まちがっているのかもしれないのである。
 「文明が普遍的・・・・・・―だれでも参加できるもの―としたら、文化はその民族に特殊・・・・・・・・・・なもの、一般から見れば不合理なもの、だから、かえって心を安らがせるものですね。(中略)ともかく文化とは日常のカスタムですね。それは開高君がいったように、極めて不合理なものです。」(「モンゴル『文明』と『文化』のいま」1988年 開高健との対談から 対話選集第五巻159頁以下―傍点小生)
 この考えでゆくと、普遍的文明と素朴とではなく特殊的文化との間の抗争になってしまう。対話集には文明と文化の違いと互いの性質から由来する矛盾、対立の話題と実例は沢山出てくる。では素朴はどう扱われているか。
 「藩というのも、一様のものじゃなくて、薩摩藩なんてのは、勉強したらあかん、藩士はいまで言う中卒程度の勉強で十分だといった。同じ藩でも肥前佐賀の鍋島藩は一藩をあげて過酷なほどに学問を強いたし、会津藩などもうんと勉強しろ。長州藩も似たようなもので、学問を奨励する。ところが薩摩藩は、あんまり勉強すると弱くなる、我々のベースは薩摩隼人なんだから・・・・・・・・・素朴という基本的美質を失うなといった・・・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・薩摩隼人というのは、人工的に、教養的につくりあげられたものですね。戦国末期に意識的に薩摩隼人の倫理感をつくる。これは藩がつくるわけですけれども、そのころはまだ藩という言葉がなくて、島津家がつくるわけです。そのときすでに、あまり勉強するな、読み書きだけできればよいといっていた。」(「風土と習俗」1984年 陳舜臣・金達寿との対談 同選集180頁以下―傍点小生)
 ようやく素朴が1か所出てきた。しかし、明治維新は素朴の力が三百年の幕府の文明を倒してなし遂げたとまで主張しているかどうか不明である。かつ、これが人工的あるいは教養的につくりあげられたとなると、素朴も天然のものではなくイデオロギーに近いものになってしまう。
 このようにして対話選集の中では、文明は近代の科学技術に代表されるように、どこにでも通用する普遍性をもっているが、文化の方は民族的で固有なものであり、独特ではあっても不合理さがあると何度も述べられている。また開高健との対話の中では、モンゴルの遊牧に対してこれを文明とも言っており、モンゴル民族の言語の方は文化と観念している。司馬遼太郎の言う文明と文化の区別は、はっきりしているようではっきりしていない、草原に戻っていったモンゴル民族が文明なのか素朴なのかも判然としない。しかし日本の薩州に素朴を当てはめて論じているのが偶然なのかどうか不明である。
 外れた脇道から話を戻してみよう。
 現代において文明と素朴の対立を何処に適用できるかであるが、残念ながらはっきりわからないままである。むしろヒントを司馬遼太郎から無理に得ようとするならば、意図的に地方の側から「素朴」というものを作り上げなければならず、今や「素朴」とはそういうタイプの精神なのかもしれないのである。

(2016.1.25 記)