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イッセイエッセイ

1112号 考える葦

2016年01月27日(水)

 パンセの断章150から以降には、「始まり」(ファイルA12)という表題がかぶっており、この章からパスカルはキリスト教が真の宗教であることの証明を展開する「護教論」(神学的部分)になっている。したがって断章200にはかの有名な「人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最もか弱いもの、しかしそれは考える葦だ・・・」などの言葉が含まれているが、護教論の部分は総じてわれわれ日本人には馴染みにくく、聖書やユダヤ教の聖典からの言葉がよく出てきて難解に感じるのである。
 ついでのことだが、このパスカルの「考える葦」というテーマには先行する類似の作品があり、パスカルが枕頭の書として愛読したと伝えられているモンテーニュの『エセー』である。そこには次のように書かれている。
 「力について言えば、この世に人間ほど傷つきやすい動物はない。くじらや象・・・のように1匹で多数の人間を殺すことのできる動物はもちろん、しらみでさえもスラに独裁官を辞任させることができた」、「一陣の逆風や・・・朝露だけで、人間を転倒させ、打ち倒すのに十分なのである。」(第2巻12章)
 パスカルの表現の方が詩的であること、人間が「考える」あるいは「知っている」存在であるのだから、(宇宙より)貴いということを述べている点で、パスカルはより近代的で真面目なのである。
 以下、「護教論」を構成しているパンセの多くの断章の中から幾つか抜萃する(「護教論」にとって大事な主張の部分とは抜き書きがかなりズレた関心になっていることを断る)。

断章151
 「私たちはおめでたい。自分と同じくみじめで、同じく無力な仲間たちとの交わりをあてにしているのだから。人に助けてもらうことはできない。死ぬときは独りなのだ。だからあたかも独りであるように振舞わなければならない。そうだとしたら豪壮な邸宅を建てるだろうか。云々うんぬん
 迷うことなく真理を求めるのではないとしたら、それは人の評判を大事にしている証拠だと、続いている。

断章170(服従)
 「しかるべきところで疑い、しかるべきところで服従するすべを知らなければならない。そうしないのは、理性の力が分かっていない証拠だ。」
 パンセの写本の欄外には、「懐疑主義者、幾何学者、キリスト教徒、懐疑、断言、服従」という文言が残されていると、訳注にある。

断章173
 「すべてを理性の支配下に置けば、私たちの宗教には、神秘的なところも超自然的なところも何もなくなる。理性の原理と衝突すれば、私たちの宗教は不条理でばかげたものになる。」
 上記は「理性の服従と使用、そこに真のキリスト教がある」と題する「ファイルA13」に収録されており、その最初の断章167は、その通りの文言が再び書かれている。
 次の断章174には、聖アウグスティヌスの(書簡)の考えが以下のように記されている。「われわれの理性を越える事柄を信じるに際しても、いまだ理解はできなくとも信じたほうがよい事柄があることを、あらかじめ理性で納得していなければ、信ずるわけにはいかないからである」

断章180
 「メシアが死を遂げ、よみがえり、諸国の民を回心させないうちは、すべてが成就してはいなかった。こうして、この間ずっと、奇蹟が必要であった。今やユダヤ人と神に逆らう者たちに対して奇蹟は必要ない。なぜなら預言は成就すれば、永続的な奇蹟となるのだから。」
 現代においてわれわれは奇蹟を見ることはない。科学が宗教を押しやったのではなく、預言通りなったのだから最早奇蹟は不要だ、という理性的(?)な説明がここではなされているように思える。この点に関連して、訳注では「キリスト教が確立した後に奇蹟が起こるとすれば、それは、キリスト教内部に生じた意見の対立に指針を与えるためである」と説明され、この問題は後の<ファイルB32~34>で詳述されているらしい。

断章188
 「理性の最後の歩みは、自らを超えるものが無限にあることを認めることだ。それを知るところまでたどり着かなければ、理性は弱いものにすぎない。自然の事物で理性を超えるものがあるとしたら、超自然の事柄については、なおさら、そうではあるまいか。」
 断章181では「信心は迷信とは異なる」と書いている。無限、虚数、素数など数学における人智の及ばぬ果ての世界。

断章193(先入観は誤りに導く。)―この章からはファイルA15「人間の認識から神への移行」がテーマである。
 「あらゆる人が手段のことばかり考えて、目標に目を向けようとしないのは、嘆かわしいことだ。誰でも自分の職分をどのように果たすかは考えるが、職業や祖国の選択については、運まかせだ。
 あれほど多数のイスラム教徒、異端者、異教徒たちが、それぞれ先祖代々の生き方が最良だという先入観を植え付けられ、ただそれだけの理由で、その生き方を踏襲するのは、あわれむべきことだ。そして各人が錠前屋や兵士といった、それぞれの職業を選ぶのも同じことなのだ。」
 ここにいう「先入観」は、習慣によって仲立ちされた無意識の先入観であろう。意識的な個々に生じる先入観はあながち不都合とは言えない。なおこの断章の訳注のモンテーニュの引用(第1巻22章)は「各人が生まれた場所に満足しているのは、習慣が仲立ちしてくれるからだ。それで、ストコットランドの未開人たちはトゥーレーヌなど無用だし、スキタイ人にはテッサリアなど必要ないのだ」

断章199(人間の不釣り合い)
 「人間はものごとの周囲を見渡す能力よりも、その中心に達する能力を多く与えられていると、私たちは自然に思い込んでいる。目に見える世界の広がりが、大きさにおいて私たちにまさるのは明白だ。しかし小さなものに対しては、私たちのほうが大きいのだから、それを所有する能力はより大きいと、私たちは思っている。しかし虚無に達するには、全体に達するのに劣らない能力が必要だ。どちらに対しても、無限の能力が必要だ。そして事物の最終原理を理解することができれば、同じく無限の認識にも到達できると、私には思われる。一方は他方に依存し、一方は他方に通じている。この両極端は、はるかに遠ざかったあげく、相接し、結びつき、神のうちに、ひたすら神のうちで再会する。」
 この章は長篇でありすこぶる面白いことが書かれている。章の末尾のところに「人間にとって自分自身は、自然のうちで最も驚くべき対象だ。・・・さらに何事にもまして理解を絶するのは、物体がどのようにして精神に結びつくことができるかである。これこそ人間にとって困難の極みだが、それが人間のあり方なのだ」とアウグスティヌス『神の国』やこれを引用するモンテーニュの『エセー』をパスカルははしょって孫引きしている。

断章211―(ファイルA16 他宗教の誤り)の中の一章
 「人々は欲心を基礎として、そこから統治と道徳と正義の素晴しい規則を引き出した。しかし結局のところ、人間のこの邪悪な核心、この「しきありさま」はただ覆われているだけで、取り除かれてはいない。」

断章242―(ファイルA18 宗教の基礎および反論への返答)の中の一章
 「神が自らを隠そうとされたこと。宗教が一つしかなければ、神はそこにありあまりにも明白に現われるだろう。殉教者じゅんきょうしゃが私たちの宗教にしかないとしても、同様だ。神はこうして隠れているので、神が隠れていることを説かない宗教はすべて真実ではない。そしてその理由を説明しない宗教の教えはすべて不十分だ。私たちの宗教は、そのすべてを行う。」
 「まことになんじは隠れています神なり」(イザヤ書第45章15節)が断章の最後に引用されている。なお訳注では、隠れた神の覆いは、いくつもあって、すなわち、自然、受肉したイエス・キリストの人性、聖体のパンとブドウ酒の外観、そして聖書の学義的意味の四種類の覆いのうちに「自らを隠そうとした」とある。

断章270―(ファイルA19 律法は表徴的であった)の中の一章
 「愛にいたらないものは、すべて表徴である。―聖書の唯一の目標は、愛である―唯一の善にいたらないものは、すべてその表徴である。じっさい、目的は一つしかないのだから、文字通りの言葉遣いでそこにいたらないものは、すべて表徴である―神はこうして、唯一のおきてである愛に多様な姿を与えて、私たちの好奇心を満足させられる。好奇心は多様性を求めるので、私たちを唯一の必要なものにつねに導くこの多様性を利用されるのだ。なぜなら、必要なものはただ一つだが、私たちは多様性を好むからだ。そして神は、この唯一必要なものに導いてくれる多様性によって双方を満足させられる。」
 「表徴」(figure)とは、ある別のもの、とりわけより高次な現実を指し示すしるし、すなわち記号である。「予型」「予表」という神学用語に同じ(ファイルA19冒頭の訳注)
 「主は私たちをどのように造るべきかを知っておられた。私たちがちりに過ぎないことを御心みこころに留めておられる。人の生涯は草のよう。野の花のように咲く、風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる」(『詩篇第103編14-16節から』が断章278及び訳注に記されている。

(2016.1.23 記)