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1111号 中国史における文明主義と素朴主義

2016年01月26日(火)

 東洋史家の宮崎市定は戦前、東洋史概説の形で「東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会」(1940年)を著している(「宮崎市定全集」第2巻<東洋史>に所収)
 この巻の自跋において著者は、中国史に対する自身の物の見方を要約して次のように述べている。文明と素朴との対立、闘争として中国史をみている。
 「従来諸家の南北闘争史観において共通の見解は、いわゆる北方の異民族に対して、これを単なる未開、若しくは野蛮なる破壊力の面をのみ強調し、否定的に評価するのが殆んどであった。これに対して私は、彼等は未開民族ではあるが、その裏に文明人が置き忘れた貴重な素質を保有する点に着目し、これを素朴主義と名付けた。この素朴主義の民族が、文明の開化し、更に爛熟して、民族の域を脱して世界的な社会を形成した中国に挑戦して、一時は勝者の地位を獲得して支配者となるが、やがて優秀なる文明に同化されて、固有の民族性を喪失して中国の中に吸収される、と同時にまたもや北方に別個の素朴民族が出現して中国と覇を争う。中国の歴史は以上の筋書きの繰返しが、常に政治、社会の中心を貫いて流れ続ける。」(348頁)
 これとよく似た主張は、用語の使い方は多少異なるのだが、ヒルティの「マキァヴェリとヴィーコ」(1906年)の中にみられる。(ヒルティ著作集第11巻<永遠の平和>に所収)
 「かくして十八世紀から十九世紀の過渡期に出た最も偉大な現実的政治家ナポレオン一世さえも、彼が敬服して止まなかった古きヨーロッパの弱い君主たちではなく、スペインやプロシアのような真剣な霊感をそなえた国民・・・・・・・・・・・・と戦わざるをえなくなると直ちに、短期間のうちに崩壊したのである。どのようにして最も偉大な現実的世界権力がまだ高い文化に達していない小さな国民に屈服したのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ということに関しては、われわれ自身(注)も等しくその証人であったのである。」(同巻16頁 傍点小生)

 (拙注―ヒルティは、母国のスイスという小国の史実を念頭に書いているものと思われる。なお、文明と文化の使い分けは意識的にはなされていない。)
 宮崎市定は、文明主義と素朴主義の対立を双方の実力闘争とみているが、ヒルティは文明(文化)と素朴(霊感)を、現実政策主義と理想主義として対峙させている。
 開高健(1930-1989年)は司馬遼太郎との対談(モンゴル、「文明」と「文化」のいま 1988年)において次のように語る。「彼らの食事は、ものものしいばかりのモノカルチャーです。羊の肉を、川の水をくんできて炊きまして、水煮ですね。そこへ一つまみ岩塩を落とすんです。それきりなんです。(中略)世界一の食いだおれの中国とそういう濃厚な関係にあったのに、なぜ蒙古人は唐がらし1つ持たずに万里の長城の外へ帰ってきたのか。ここなんです、私の分からんのは」。司馬は彼らが草原の人らしく簡素を愛したなどとさまざま応じるが、直接は答えていない。(司馬遼太郎対話選集5巻144頁)
 次に宮崎市定が迷信や道徳、知識階級と素朴主義との関係を論じているところが興味をひいたので引用する。
 「迷信の行わるるは野蛮なる民族の間に限ると思ったら大間違いである。事実は文明の進める社会ほど迷信が多い。野蛮なる民族の間の迷信は、それが荒唐無稽なるものにもせよ、なお生活自体より滲み出でたるものであって、一種の宗教ともいうべきものであるが、文明社会の迷信はそれが生活の基調より遊離して遊戯化せるにも拘わらず、なお文明人の行動を規律する。信念に非ざる迷信に左右せらるる文明人は禍なるかな。これこそ生活自体が遊戯化していることを示すに外ならぬのである。」(漢末の王莽の五行思想的な迷信に関して 同巻46頁)
 「素朴民族の間には彼らの道徳がある。勝つも負くるも常に堂々たることが要求せられる。もし一度これに背けば、彼等民族の間に容れられる所がない。社会的制裁の厳格にして男性的なるが彼等の長所である。武士道は畢竟素朴主義民族の間に発達せし道徳に外ならぬであろう。」(五胡時代の素朴民族における武士道に関して 同上68頁)
 「素朴民族が文明化するは容易く、何人が指導せざるもよく自発的に、寧ろ非常過度の熱心をもって文明の影を追求するものだ。然るに文明人の素朴化は車を坂に押し上ぐるごとき難事である。(中略)王安石の改革は人心の好まざる方向へ導かんとするものであれば、その難事たるや察すべきである。(中略)彼の反対党のかかる改革に対する冷淡さは知識階級の素朴化が、一般民衆の素朴化よりも更に困難なることを物語るものである。」(「宋代における素朴主義教育論」同上110頁)
 「満州人の醇朴なりしは必ずしも太祖の自画自讃のみでなく、確かな証人がある。奇しくもそは日本人だ。寛永二十一年越前国の国田兵右衛門等の三艘、松前に赴かんとして満州に漂流し、乗組員は北京に送られ、朝鮮を経て帰国した。折しも北京は清朝が明に代りて北京の王座に坐りたる混乱の最中だ。国田等は帰朝の後、江戸に召されて尋ねらるるままに見聞せし覚書を作成した。(以下、覚書の部分略)日本と満州と、素朴主義の訓練において、一脈通じたるところが、言語は分らざるも、以心伝心互いに了解したるものだ。好漢は好漢を知る。吾人は読んでここに至って無限の興趣を感ぜざるを得ない。」(「素朴主義をもって建てる満州帝国」同上123頁)
 韃靼漂流記(1084号参照)の越州商民の行動は、明国を破って清朝が奉天から北京に入関する大移動と時期が一致しており、満州民族も越前の日本人もともに当時は淳朴善良であった様子を読者に伝えてくれる。

 「中原の文明社会に対し、幸いに東洋には一個の素朴主義社会が存在した。そは日本である。世人或いは日本文明の古きことをもって誇とするも、単に古きのみにては何等の価値もない。幸いにして日本は古き文明を有しつつも、一方において素朴主義を捨てざりしことが世界に向って誇るに足る事実である。日本精神とは建築や文学に表われる文飾ではない。むしろ言わず語らずして行動する素朴主義精神でなければならぬ。その他のものは飾りでこそあれ、むしろ本質とは縁遠き存在に属する。」(「西力東漸を何と見る」同上127頁)
 上記のような歴史観はやや戦中的な色彩を帯びているが、日本人の民族的位置を、もともと素朴主義の民族であるとみなしている。そのため著者は、現代に至ってはそうした考えは日本の侵略主義を幇助するものだと攻撃を受けるかもしれない、と断りつつそれは歴史の事実と真理を語っている、と戦後の論文においても同様な主張をしている。(「素朴主義と文明主義再論」1982年 同巻所収)

 「科学こそは文明生活と素朴主義とを併立調和せしむる紐帯であったのである。」(欧州の素朴主義と科学精神に関して 同上126頁)
 「科学に対する日本と清との態度の相違が、その後の両国の運命を決定した。余は科学そのものとは言わない。科学に対して何等の偏見なき素朴なる態度を取り得たことが、取りも直さず、わが国の社会が素朴主義の根柢に立ちたるものなるを立証し得た。そしてその素朴主義たるや、満州人、蒙古人のそれと異なって、発展性を有しおることも同時に知り得たることを言うのである。かくしてわが国民は、科学の移植に成功し、文明生活と素朴主義とを如何にして調和せしむべきかの鍵を握るに至ったのだ。前野、杉田無かりしも、わが素朴主義社会は必ずやこれに代る者を出した事であろう。(以下略)」(「日本に保存されたる素朴主義」同上128頁)
 杉田玄白などの「蘭学事始」にみられる江戸期先人の科学に対する開明主義を例に、日本人の素朴主義の強さを見ているのである。西欧の近代世界の制覇が素朴主義と科学の結合によるものであり、アジアのように単なる文明の成熟に堕すことがなかった点が、西欧と日本とは同様だと言っている。それならば、現代における素朴主義の復活というテーマは措定し得るか、また何を媒介にして実現されるべきものであろうか。

(2016.1.23 記)