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イッセイエッセイ

1107号 さまざまに先入観

2016年01月24日(日)

 先入観をもつことはわるいことではない。最近の世の中の言い回しでは、予断をもたずに事に当るべし、白紙で問題に臨むのがよろし、自由で幅広い有効な選択を可能とすべし、というように、先入観なく行動する姿勢が望ましいと勧める。つまりこうした考え方は、失敗をおそれずに果敢に挑戦すべきだ、先例にとらわれず創造的に仕事を進めるべきだ、といったいわゆる戦略的な思考と行動を積極評価する立場である。
 しかしよく考えてみると、先入観をあらかじめもって行動するという意味は、過去の事実と将来予測とを前もって用意し、心の準備をしながら事態に対処することを含意しているはずだ。この方法は一般的な経験からしても確率的には失敗が少なく、実際もことに臨んであわてふためくことが少ない方法である。
 このように先入観を持つことは、特定の筋書きを内心に描くことであり、それによって多少は他の筋書きも付随的に心に準備することであるから、よい結果につながると考えてよい。
 仕事柄さまざまな会合に参加することが多いのだが、ときどき会場や会議の内容を勘違いして、車中で行き先や資料をもう一度確認したりすることがある。次の仕事のイメージ、場所や出席者に関しての先入観を取り違えた場合は、そこで差しかえのためのモードチェンジが心に生じて、挨拶の言葉に調子が出ないことがある。
 また話がややそれるのだが、夕方の会合の前後に車中でラジオを聴くことが多い。その時刻は大体ラジオ講座の番組が流れる時間なのである。ラジオ講座のコマ時間は十五分ないし二十分の番組であるから、講師の先生は時間の使い方に神経をつかっている。講座の進行は明瞭を旨としており、内容を濃密にしているのが特徴だ。そして先生が必ず強調することは、今日のこの時間における生徒の学習目的が何なのかについてであり(通常は3つほどのテーマ)、この点をあらかじめはっきりと伝えるのである。
 さきほどの先入観の話題に結びつけると、ラジオは短い時間の勝負でありそのうえ互いの顔も見えないので、ラジオを聴く生徒の頭に先入観をきちっと持たせることに苦心しているのである。
 今日の「私の履歴書」(1月7日)には小椋桂さん(作詩・作曲家)の少年時代のことがのっている。小学生のときは勉強嫌いでその他大勢の一人であった氏が、中学生に入り突然優等生になる。その理由はなぜかと言うと、親が10歳の春から家庭教師(早大文学部の学生)をつけ、六年間ずっと週1回2時間指導をうけたためなのである(履歴書からは、失礼ながら教育には不熱心な親に読めるのだが、なぜか家庭教師をつけてもらっている)。
 この先生の指導内容には特徴があった。
 「1つは予習を必須としたこと。教材の要点を前もって大学ノートの左半分のページにまとめて記しておくのである。もう1つは小学5年生だった私に中学の数学と英語を教えたこと」。
 そのため「小学卒業時には中学3年分の数学と英語の学習を終了していた」。
 「頭脳が突然優秀になったはずはない。家庭教師の別府先生が私に『予習』を習慣づけたこと、そして最早もはや英語の授業は私にとって復習でしかなかったことによるものである」と書いている。
 良き親と恩師にめぐまれたことはさておき、あらかじめの予習というのが、学習上に一大効果を発揮したことを証する実際例といえる(なお、受験教育における“早いもの勝ち”や“先手必勝”といったテーマはここではさておく)。つまり教育において教師は「先入観」を与えること、逆にいえば、学習において子供が先入観を持つこと、このことこそ教育の効果・効率を高める第一の要諦ではないかと思い、ここに記すのである。
 最後にもう一度もとの先入観のテーマにもどる。
 人間は新しいものや意外性のあるものが好きである。だがその反面で芝居や音楽の鑑賞などで経験するように、むしろ馴染みのある分っているものを繰り返して味わうことを好む傾向がある。こうした習性は一体どこから来るのであろうか。これは思うに、自分たちの心に過度のストレスを与えることのない先入観に対する一種の愛着なのではないだろうか。これから演じられるであろう事柄が分るようになっていることは、人間の精神にかなった自然の本能なのではないか。

(2016.1.9 記)