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イッセイエッセイ

1105号 「つながり」の目ざすもの

2016年01月18日(月)

 拙著『ふるさとの発想』では、「人びとが、共感と信頼によってつながり、共に行動、活動する新しいコミュニティ」、すなわち「つながりの共動社会」を提案した。
 「新しいふるさと」は「つながりの再生」を求めることであり、いまや地域や家庭の「つながり」の良さが、幸福度の根底にあると言われるようになっている。人と人との関係がしっくりしていれば地域の幸福度が高まると考えるとき、この「つながり」とは一体どのような実質を持った人間関係だろうか。
 「つながり」という考えは、一時代昔ならば、自由な競争あるいは創造と革新を妨げ消極的な方面に作用する人間関係とみなされ、また序列や旧態を重んじる昔風の傾向とも結びつくと考えられていた。しかし最近は「つながり」が、「しがらみ」や「なれあい」などとは異なり、積極的な意味をこめて使われるようになっているのである。
 では「つながり」が、豊かさの追及や地域の安定などに役立つと考えた場合、それが新しい原動力を生みだすための積極的な条件は何であろうか再度問う必要がある。

(2015.11月 記)

 今ではかつてのような自然の「つながり」を地域の中だけで維持しようとしたり防御しようとしても、全体の目的は完遂しない。なぜなら世の中全体が大都市からの強い影響を受けており、他の地域との競争も常態化している。「つながり」が成員間の互いの「助け合い」になっていなければそれ以上の力は生まれず、まず他地域に劣後してしまうのである。「支えあい」が必要なのだと言ってもよい。
 たとえば夫婦は、親子のように初めから「つながり」があるわけではない。自然的な基盤ではなく意思的な関係によって結びつきを作っている。民法典にも「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない(第752条)」と、その法的実効性はともかくわざわざ書いてあるほどである。
 「つながり」は人を中心にした考えであるから、狭域的にハード的なものを核にまとまってゆくというかつての「コミュニティ」の思想とはちがう。またキリスト教の社会のように、人がまず教会などとつながり、人と人との関係は二次的に派生するという考え方ともちがうのである。
 「つながり」は、個々が独立に関係する仕方ではなく、「役割」や「分担」を果すことにより、人間の生きがいを活発にし、あわせて地域の生活効率をよくする方向に働く必要がある。
 現今はあらゆるものが「市場」の対象となって商品化し、結局のところ各々その場かぎりの金銭の世界に還元されている姿を見ることが多い。
 「つながり」は市場主義とは異質の原理である。「つながり」の考えは損は得であり、得は損であるという考えであり、長い目で見て応報の観念が入った結びつきである。人間同士の相互関係を人生的に、ないし世代をこえて見ようとする考え方である。

(2015.12月 記)