西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1104号 正義と力(アジアの近代)

2016年01月17日(日)

 宮崎市定全集の第16巻(近代)は、「東亜の近代化」、「太平天国の性質について」、「英仏聯合軍の北京侵入事件」、「中国のめざめ」の各論文を所収しており、列強の植民地政策とこれに抗するアジア大陸での中国の応接が記述されている。著者宮崎市定(1901-1995年)の自跋によれば、本巻は全集としては第22回に配本された最終巻であるという。近代史の部分が最後になった背景には、著者がそれまで中国全史の中で近代史にはあまり強い関心をもたなかったために、中国近代の通史部分を著わす機会を失っていたのだそうだ。著者がもともと中国史に学問的興味をもったのは、その独自性にあったのであり、近代化すればするほど中国は独自の発展を許されなくなり、世界史一般に埋没してしまったために関心がうすれたという問題があったからだと述べ、「最も不出来な巻での終末は九仭の功も一簣を欠く」と認めざるをえないと書いている。「数々の至らざる点は、病床よりの発信として、大目に見て頂くより外はない。若しこれがなお春秋に富む身ならば、後日の償いを約束できるかもしれないが、既に天命も迫ってきた老齢の身には、それさえもできかねる立場にある。ただ偏えに宥恕を賜りたく懇願するの外ないことは、自らとしても遺憾に堪えぬ次第である(1993年七月)」と、全集22巻の筆を終える。
 なお本書中の「中国のめざめ」は、『東洋の歴史』第11巻(人物往来社)1967年としてすでに出版されたものを所収しているのである。その中には中国近代史と関係した「日本の立場」や役割のことも著述されている。すでにエッセイ第1099号「日本の近代化」、第1100号「パリ講和直後の日中米の関係」において、関心をひいた箇所を参考抜記させていただいている。
 本第16巻は未だすべては通読できていないのだが、以下は、いくつか面白いと感じた本巻の他の部分を追加して抜萃したい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 まず一読をした「東亜の近代化」の章から。(標題は小生)
(15年におよぶ太平天国とその滅亡1864年
 「この内乱はその波及するところがきわめてひろく、騒乱は全国に及んで、中国本部18省のうち、少しも影響がなかったのは甘粛一省のみであった。そしてこの鎮定に功のあったのは清朝の親衛軍たる八旗兵でもなく、漢人をもって組織された常備軍たる緑営軍でもなく、新たに募集された民兵であった。ことに八旗兵が腐敗していてあまり役に立たなかったことは、征服王朝である清朝の威信を傷つけることが大きかった。これから被征服者である漢人はようやく自信をとりもどして、しだいに清朝の命令をきかないようになった。」(16巻31頁)>
 ある政治勢力の対外的な威信や内なる自信は、歴史的な抗争と実績から生まれる。

(同治中興と北洋軍閥)
 「太平天国平定のときの第一の功労者は曽国藩であったが、曽国藩のひきいた湘勇は平和回復ののちに解散され、これに反して李鴻章はひきつづき国内の叛乱討伐に従事したので、兵権はしだいに李鴻章の手に帰し、その部下が新たに設けられた常備軍(練軍)の幹部に登用され、ここに李鴻章を頭とした軍閥が成立した。これをふつうに北洋軍閥と称し、のちに清朝を滅亡させる一つの原動力となった。しかし李鴻章は元来文人政治家であり、またゴルドンと行動をともにしたので、西洋文化に対する理解が深く、朝廷の大臣となって外交にも腕をふるい、とくにヨーロッパの機械文明をとり入れるのに尽力した。」(同上32頁)
 兵権を掌握していることの政治的な重要性を教えている。湘軍(曽)とわい軍(李)の二将軍はひと回り年齢がちがう。

(ヨーロッパ文化の輸入)
 「これまで中国内部の交通は大運河を幹線とする内陸水路にたよっていたが、ヨーロッパ・中国の汽船が沿岸航行をおこなうようになると、その積載量が大きくまた安全迅速なだけ、貨物はみな汽船に奪われて、大運河は地方的な交通線の位置に落されてしまった。これは中国の交通上の大変革であって、運河の沿線に栄えた古い都市が衰微し、かわって天津、上海、広東などの海港が発展した。それとともに中国の人口は運河の沿線から、海岸地方に移動集中するようになった。」(同上33頁)
 中国における近代工業の導入、輸送交通手段の歴史的な変革、それらに伴う人口移動の様子が印象的に述べられている。

(日本と中国との条約)
 「日本が中国と修好条約を締結したのは同治帝のときであり(1871年)、この条約は日本にとっても・・・・・・・清朝にとっても・・・・・・・外国と結んだ最初の対等条約・・・・・・・・・・・・・である。日本ははじめから中国に隷属していたことはないが、中国人は日本を己れよりもいちだん低い国と考えていたので、この対等の取り扱いには不満が多かったが、李鴻章らの尽力でようやく成立したのであった。」(同上37頁、傍点―小生 以下同じ)

(日清戦争と下関条約1895年
 「この戦争に対して李鴻章ははじめから不賛成であり、日本との戦争を極力さけようと努力したのであったが、清朝の内部における強硬論者にひきずられて不幸な結果をまねいたのであった。当時清朝の政治家はヨーロッパ諸国に対しては事ごとに譲歩して局をむすんだが、日本は従来自国よりもいちだんおとっている国だと思いこんで、日本に向っては強硬な態度にでることを要求したのであって、日本がいち早くとりいれた近代文化の威力を見ぬくことができなかったのである。日本は明治維新後、ヨーロッパ文化を輸入しながらも、これまで日本文化の源泉となっていた中国文化を尊敬し、内心では中国が大国であることを恐れていたが、この戦争ののちに急に中国を蔑視するようになってきた。そして中国の研究をおこたり・・・・・・・・・・いつまでも中国が後進国であって日本が先進国であるとのうぬぼれが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こんどの中国事変から第二次世界大戦をひきおこす精神的な原因の1つとなっている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ように思われる。」(同上44頁)
 自国に対しても相手国に対しても、国家が互いに先入観をもち深層的な認識の違いを生じさせることに注意をする必要がある。

(義和団の乱と結末)
 「・・・八国の連合軍が清兵と義和団を破って北京にせまると、西太后は光緒帝をともなって西安に逃走し、連合軍は北京を占領した。この戦乱の間にドイツ公使・日本外交官その他、地方でも惨殺された外国人が多かったので、外国軍は北京の宮殿を略奪したり・・・いたるところで暴行をはたらき、その野蛮な程度は義和団の乱民とあまり変らないくらいであった。その中で日本軍は比較的軍規がよくたもたれ、中国の官民に依頼する念を生ぜしめるようになった。清朝は地方にいた李鴻章を起用して列国との談判にあたらせ、内乱責任者の処罰、多額の賠償金を支払い、ドイツ・日本に対する謝罪、北京・天津における外国駐屯軍の承認などを約して平和を回復した(1901年)。このときの賠償金があまりに多すぎることを反省した諸国・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のなかには、この金を文化費に用いて、中国留学生を自国にまねく国もあった。日本は諸国と同様に駐兵権を認められたが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それが北支駐屯軍と称せられ・・・・・・・・・・・・・その数がしだいに多くなってこんどの中国との戦争の原因になった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同上57頁)
 義和団事件の終戦処理の結果が、日中戦争につながってゆく直接の原因となったという認識である。

(日露戦争1904―05年と日本の立場)
 「東洋人である日本が・・・・・・・・・ヨーロッパの強国ロシアを破ったことは・・・・・・・・・・・・・・・・・・世界的に大きな反響を呼んだ・・・・・・・・・・・・・。列国の植民地にされたアジアの各地に民族的な自覚がさかんとなり、独立運動に勢いをえた。中国の場合にはそれが排外運動の形をとらずに、かえってヨーロッパ文化をとりいれて中国を近代化せねばならぬという反省となり、これに邪魔となる清朝を倒そうとする革命運動の形となって現われた。この目的のために日本に留学する中国学生の数が一時は驚くべき数にのぼった。
 こういうアジアの形勢のなかにあって日本はその途をあやまった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本はアジアの国民の期待に反し・・・・・・・・・・・・・・・彼らの味方とならずにかえって敵となった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本はこれまでの外国がすすんできた方向に追随・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・し、中国において利権をあさり、外国と肩をならべてアジア諸民族を蔑視する傾向さえあった。しかしこれは当時の日本としてやむを得ない事情があり、日本の国力を推進せしめた近代工業は、これをやしなうために外地に市場を獲得確保せねばならぬ必要にせまられていたのであった。当時の激烈な国際競争の間に立っては、市場の確保のためには軍備を必要とし、軍備の維持には市場を必要とし、市場の拡張は周囲から抵抗をまねき、その抵抗を排するにはもっと大きな軍備を必要とする、この悪循環がいよいよ日本を駆って帝国主義に邁進させたのである。これまで日本が清朝と争うときの口実として利用された朝鮮独立のスローガンはひっこめられて、日露戦争後5年にして、日本は韓国を併合した(1910年)。日本は朝鮮において近代的施設を普及させたが、韓国併合のためにアジア諸国の同情を失うことが多かった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同上59―60頁)
 阿片戦争(1840―42年)から、義和団事件(1900―01年)まで60年、そして辛亥革命(1911年)・清滅亡(1912年)まで70年、第二次大戦終結まで100年という時間的な経過がある。こういう事件の連続と因果に、筋の通った歴史解釈はどうつけられるものであろうか。最近の中東における混乱との比較。
 歴史の評価は、時代も変った後で、また評価の物差しも変った後で、事件から数十年以降において行なわれるのが実際なので、いよいよ当時の情状とはことなった評価を受けることになる。

(ワシントン会議1921―22年と米国の主導権)
 「第一次世界大戦において戦禍をこうむらずに、かえって国力を蓄積したのはアメリカと日本であった。ことにアメリカは従前の債務国から一躍して債権国となり、その海軍力はイギリスに追及し、大軍をヨーロッパに送ってドイツを屈服させたので、国際的な発言権がにわかに増大した。しかしパリの講和会議においてはイギリス・フランスに掣肘されて自由に手腕をふるうことができず、中国をたすけて日本を圧迫することにも成功しなかったので、極東の問題は日本と中国の対立のまま未解決に残されていた。そこでアメリカは新たにワシントン会議を提唱し、太平洋に利害の深い諸国を招集して軍備制限、極東問題を討論した。(中略)ワシントン会議は要するに太平洋地域の国際外交に対してアメリカが指導権を獲得したことを世界に承認させ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中国に対する従前のいわゆる門戸開放主義を推進し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中国を後援しつつ日本の進出をおさえようとする政策の現われ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・であった。」(同上68―69頁)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 次に、全集第16巻(近代)の相当部分を占めているのが、日清戦争から中国北伐の完成までを扱った「中国のめざめ」である。その中にある「日本の立場」という章から、1099号「日本の近代化」において抜き残してしまっている部分を、やや長く且つ「東亜の近代化」のテーマと説明が重複するところがあるが、以下に抜萃と簡単な注解をする。
 「日露戦役もまた、立憲国と専制国との間の戦争であったが、なおそのうえに、黄色人種と白色人種との間の戦争という意味が加わっていた。現今の若い世代は・・・・・・・・もはやそういうことすら忘れ去っていられるだけで幸福である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。しかし当時においては、アジア人がヨーロッパ人に戦いを挑むということは、国運を賭しての大冒険であった。イギリスとアメリカとが好意的に日本を援助したのは事実である。しかしそれは現今のような、武器の無償供与というような甘いものではない。日本国力の限界まで資金を貸すだけであったから、借りたものである以上、元利耳をそろえて返さなければならなかった。一文だってまけてもらえるものではない。インド人はイギリスの支配下に苦吟していた立場上、心底から日本に同情を寄せたことも事実である。だからといってかれらに実際できることは、何ひとつとてなかった。清朝に至っては、局外中立を宣言して平気でいたのである。どこの領土内で戦争があるのか知らんといった顔であった。この場合も日本が勝ったからよかったのである。列強による中国の領土分割の危険がこれによって解消された。ロシアではロマノフ王朝の専制政治の権威が動揺し、革命運動が活発となった。長い世界の歴史上に、もし義戦というものがあれば、日露戦役こそその第一に数えられるべきであろう。」(同上259頁)
 このところの歴史理解はもっと論争があってしかるべきであろう。

 「ところが日露戦役ののち、日本は一躍して世界の列国の仲間に入り、東亜の安定勢力となるとともに、今度は一転してはなはだ保守的な政策をとるようになった。これまで世界の列強が強力で無理を押しとおしてきたやり方を、そのまま日本がまねるようになった。それが韓国の保護国化、満蒙の経営として現われてくるのである。しかしながらこれもいちがいに日本のみの責任に帰するわけにはいかない。当時の世界は今日とは違って、いたる所が列強の植民地であって、局外者は指一本ふれることを許されない。移民を送ろうとすればことわられ、商品を売ろうとすれば締め出される。軍備がなければ付けこまれるし、軍備を維持するには金がかかる。日本のように国内資源の貧弱な国が、一等国の軍備をそなえているためには、第一は領土、第二に勢力範囲を確保しておかなければ、ほかに費用の出所がなかったのである。
 日本の政治は対外的に変わったばかりでなく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・対内的にも同じように変わったのであった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その理由のひとつは指導者層の老齢化から来ている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。その昔、明治維新政府における少壮気鋭の進歩的政治家は、その後の成功に気おごり志たかぶって、いまや老獪不潔な権力家に変身してしまった。そして政治家が庶民感覚を失うとともに・・・・・・・・・・・・・・・・・・軍人は良識を忘れ・・・・・・・・資本家は道義をおき去りにしはじめた・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同上261頁)
 「政治家の慢心については・・・・・・・・・・・国民の側にも議すべき点があった・・・・・・・・・・・・・・・。日露講和の条件が報らされたとき、日本各地に政府の弱腰を非難して反対の声が高まった。(中略)過激な行動は、当局者に言わせればまさに、親の心、子知らずであったであろう。これ以後、日本の重大な国策は、国民の知らぬままに秘密な場所で論議され、最後的に決定されたことだけが国民に知らされるようになった。(中略)陸海軍のことは批判を許されないタブーとされた。国民は政治に対しては不信を抱いても、陸海軍には絶対的な信頼を寄せた。このような変化は、国民自身にはほとんど自覚されなかった。というのは、こういう変化を起こさせるような外部的要因がつぎからつぎへと起ってきたからであある。当時の世界情勢は今日考えられるような甘いものでなく、瞬時も油断できない厳しいものであったのだ。」(同上261―262頁)
 あっという間に日本の指導者各層そして国民もがおかしくなったのは、一体何故かということになる。

 「日露戦役後、世界情勢の変化のなかで、まず第一に変ったのはアメリカの対日態度である。アメリカが戦時中に日本に好意を示したのは事実であったが、それは何も日本が好きだったからではなく、たんにロシアの出鼻を挫くためであったから、一方では日本が強大になりすぎぬよう警戒を怠らなかった。アメリカは従来、中国において勢力をもっていないただひとつの強国である。そこで日本を利用してロシアに打撃を与えて満州から後退させ、同時に日本を疲弊させて満州を手放させ、代りにみずから乗り込んであらたに勢力範囲を獲得しようというのが、最初からの打算であった。」(同上262頁)
 「韓国併合は日本にとって大きな失敗であった。韓国宮廷は高麗朝の後をうけた李朝太祖李成桂いらい、五百余年の長い因習をもち、保守の牙城であり、陰謀の巣窟であったから、新しい政治を行うためにはこれを廃止するのもやむをえざる結果であったであろうが、もし廃止するなら、そのあとには韓国人民の自治を残して民主政治を指導すべきであった。しかし当時の日本政治家はすでに動脈硬化して、すっかり柔軟性を失っていたから、もとよりかかることは望むべくもなかった。それどころではない。日本国内でさえ、元老が長生きしすぎるという不平がつぶやかれていたのである。」(同上265頁)
 「日本の外交が先進国に対しては卑屈な反面、後進国に対してははなはだ尊大であったという批判はしばしば耳にするし、またそのとおりであった。しかしこれも、そのようにしなければならぬ現実の状態であったことを考慮に入れねばならぬであろう。向こうもまた弱いものには強く、強いものには弱いという事大主義であったのだ。正しいことでも権力を伴わなければ通らない。ゴネ得が行われていたのである。もちろん、そのうちに、不正なことでも権力さえ使えば通ることがわかり、権力の乱用が起ったこともまた否定できない。」(同上326頁)
 パスカル(パンセ103章)に「こうして正義に力を与えることはできなかった。力が正義に言い逆らって、おまえは不正だと言い、さらに正しいのは自分だと言ったからである」

 「さらに正直にいえば、日本が追随外交政策をとっているあいだは、実は安全であったのである。日本が追随していたイギリスは、植民国家としてこれほど悪事を働いた国はなく、第一次世界大戦後は世界の大部分を植民地や半植民地にしたが、よほどの悪事を働かねばこんなことはできるはずがない。しかしその半面、外交にかけては最も経験をつんだベテランであり、日本は国際社会に加入することが遅かったので、この老練家にたよるのが最も得策であったわけである。しかしこのイギリスはあまりに貪欲すぎた。世界中の利権を独占しようとかかった。ドイツのような新興国が現われると、少しの利益も分配しようとせず、叩いては潰し、起き上がるとまた叩いて潰す政策をとった。しかしイギリスはワシントン会議以後、日本を見限って、日本をドイツ側に立たせるに至ったのははなはだ拙いやり口であった。日英同盟の廃棄は、日本とともに植民帝国としてのイギリスをも破局においこむ第一歩であった。第二次世界大戦はイギリスの貪欲が本当の原因であり、戦争の結果、イギリスは戦勝国の一員にはなったが、その大領土はすべて分解してしまったのである。」(同上326―327頁)
 その後の部分で、国家にも犬的性格国家と猫的性格国家がある、といった喩え話が出ている。日本などは前者の部類に属するという。
 なお、齋藤健著「転落の歴史に何を見るか」増補(2001年 ちくま文庫)の対談篇(第二部)において、イギリスが植民地からの引き際をうまくし終えることができたのは、本当の意味のエリートが常にいて的確な国の舵取りをしたからではないか、と論じている。(秦郁彦・寺島実郎氏)

(2016.1.11 記)