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イッセイエッセイ

1103号 歴史の内力と外圧(1099号に続)

2016年01月17日(日)

(1)明治維新を日本の内なる力だけで説明できるか
 「明治維新の必要性は如何ように説明さるべきであろうか。思うに勤王史観から唯物史観に至るまで、見方の相違こそあれ、日本をもって日本を説明しようという立場においては共通なものがある。ところで私がこれまで取ってきた態度では、日本だけを切り離して孤立させ・・・・・・・・・・・・・・その内なる動きだけで日本の歴史を説明しようとするのは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そもそも無理なことなのである・・・・・・・・・・・・・・。特に幕末期のような世界的な激変期において、強力なヨーロッパの産業革命の波が押し寄せてくる時代において、日本で日本を説明しようとするのは、動いている汽車の中に地震計を据えつけて地震を計ろうとするようなものである。」(『日本文化研究』第一巻「東洋史の上の日本」1958年 宮崎市定全集第21巻407頁)<標題文と傍点―小生、以下同じ>
 日本史において、幕末、明治維新期のいわゆる勤王・攘夷運動の意味づけに不可解な点があるのは、倒幕運動を「いわゆる明治の元勲たちが自分等に都合のいいようにばかり真実を改作して歴史を書かせたから、こういう結果になった。工夫したあげくに書かれた歴史が無理なものであったばかりでなく、当時のいわゆる勤王の志士の行動も、ずいぶん無理なことがあった」(同上405頁)と記している。

 「いったい内とか外とか言うのは元来比較的、相対的なもので決して絶対的な分かちかたではない。(中略)もちろん私は、いわゆる内なる力を無視しようというのではない。ただ私はいわゆる内なる力と・・・・・・・・・いわゆる外なる力を公平に見くらべて・・・・・・・・・・・・・・・・・その強さに従って価値を認めたいのである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・歴史の上では力ほど客観的に計られるものは他にない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。私の客観史学はある意味から言えば、歴史の力学と言ってよいのである。」(同上407―408頁)
 中国にも先んじて日本だけが、社会革命を必要としたほど当時に生産力の発展がすでにあり、経済も進歩していたなどとは考えられないという説である。

(2)中国と日本との差異が列強の前で意味をもったか
 「このときのヨーロッパとアジアとの間の落差の大きさは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・少々のアジア諸国同士の間の微小な落差を無視し得るものであった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。中国がたとえ少しぐらい、日本に先んじていても、それはほとんど物の数でもなくなっていた。言いかえれば、アジアのいわゆる内なる力は、ヨーロッパの大きな外なる力の前に立ってはほとんど無力に近かった。(中略)阿片戦争はもちろん、アロー号事件、太平天国から辛亥革命に至るまで、中国の歴史はほとんど外力によって左右されている。その際独り日本だけが・・・・・・・内なる力に頼って行動し得たであろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・もしそう考え得られるならば・・・・・・・・・・・・・それは従来の歴史が間違って書かれていたに違いないのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同上408頁)
 産業革命を達成し飛躍的に増進したヨーロッパ列強の国力は、アジアの各国の事情差などに関係なく強大な圧力となってのしかかってきた。これこそが19世紀中葉以後の列強下のアジア情勢であったという見方である。なお、筆者は「日本の近代化」(1099号参照)において、日本が列強による四面楚歌の中、明治維新を自力によりなし遂げた意義を精神面から論じている。それは当時の列強との経済力の差は前提としながらも、日本特有の精神的ファクターの側面を特にとりあげたとみるべきであろう。

(2016.1.10 記) 

(3)日本の明治維新と列強の利益はどう共存したか
 「明治維新以来の日本の歴史が、順風に帆をあげたように着々実績を挙げることができたのは、それがヨーロッパ諸国の利益と一致したからだ。ヨーロッパ諸国はアジアの最も便利な地点において、安心して利用できる基地がほしかったのだ。ヨーロッパ列強が植民地化して利益をあげうる最大の目的物は中国である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この中国を制するには日本に足場を設け・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本人を利用するのが一番捷径である・・・・・・・・・・・・・・・・・日本は巧みにこの潮流に乗ったわけである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。ここに日本独自の追随外交が始まったのである。明治の官僚は人民に対しては横柄に威張ったものである。だから一般人民は、あんなに威張る官員が、外国人の前へ出てペコペコ頭を下げようとは夢にも考えなかった。そして歴史が間違って書かれてしまったのだ。」(同上408―409頁)
 「明治維新政府が外界の大きな潮流に対して順応する政策をとったのは、自己の無力を自覚した結果だとも言える。ところが日本よりも大きな実力をもった中国は、ともすれば自己の力を過信して、蟷螂とうろうの斧をもって龍車に刃向おうとするの愚をあえてした。たびたび排外運動や、対外戦争がその結果として起ったが、そのたびに外力の重圧が過酷にのしかかってきた。この際、欧米列強のお先棒をかつぐ役目を勤めたのが日本であり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それも一度や二度のことではない・・・・・・・・・・・・・・・中には日本がそれと自覚しないで・・・・・・・・・・・・・・・、大きな役割を果たしたこともある。」(同上409頁)
 幕末の歴史的事実として次のような例をあげている。「アロー号戦争に際して、英・仏連合軍が北京進撃に用いた輜重しちょう運搬の馬匹は、幕府の許可を受けて日本民間から買い取った。もしこの千頭以上の馬匹がなかったなら、英・仏連合軍の北京進撃は恐らく実現困難だったであろうと言う。これは明治維新よりも八年前(1860年)の事実であるが、この際の英・仏の態度こそ、日本の明治維新及びそれ以後の動向を決定したものと言える。」(同頁)

(4)外圧影響下の革命と独裁専制、田舎・農民の犠牲
 「明治維新がもつ性格の一つは・・・・・・・・・・・・・それが強い外圧に操られながら達成した革命でありながら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内部に向っては独裁的専制的であった点・・・・・・・・・・・・・・・・・・にある。だから当時、官尊民卑という言葉が流行った。この独裁的な政治は、先進国に急いで追いつかねばならぬ当時としては已むを得ぬ必要悪であったかも知れない。しかし一度始まると独裁政治はなかなかやめられぬもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・である。それが昂じて遂に今度の戦争に突入するようになったのは大きな不幸であった。とにかく明治政府の指導によって国論は一定し、多少の摩擦を排して、開国進取の資本主義に向うことができた。但しその際の資本の蓄積は地方農民の犠牲の上に行なわれたことは確かである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。都会には知らぬ間に大きな工場が建設され、資本家はそれ相当の利益を得ていたが、田舎の農民は維新前後のままに放置されて貧困に喘いでいた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。資本主義の恩恵が、私の生国の信州のような、遠い田舎にまで廻りはじめ、農民の生活程度がいくらかでも向上しだしたのは大正年間に入って第一次大戦が起ったころからである。それだけの長い間・・・田舎の農民は都会の資本主義にほとんど無償で奉仕しつづけたわけである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(同上409―410頁)
 明治期、欧米資本主義を受け入れたターミナル的な拠点が帝都東京であって、そこに莫大な利益が吸収されて、田舎の地方は地租負担や人材供給などで疲弊したことを述べていると思える。

(5)明治維新の直訳的傾向、大陸への中継文化の性格
 「明治維新の性格の次の特色は・・・・・・・・・・・・・ヨーロッパ事物の輸入に直訳的傾向が強かったこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・である。もっとも天皇の地位とか、中央政府の機構とかにはずいぶん神経をも使い、いわゆる国体を闡明(せんめい)したものだが、一般人民に重大利害のある商法や民法には外国の直訳が多かった。当時のヨーロッパ文化は・・・・・・・・・・・単に程度が高いばかりでなく・・・・・・・・・・・・・直訳を強いるほど強力なものだった・・・・・・・・・・・・・・・・のである。」(同上410頁)
 「結局、ヨーロッパ諸国は中国を食い物にするために日本を利用し、保護する必要があった。日本がそれに歩調を合わせて行くうちに、日本の資本主義化が進行したのである。文化も開け、学問も盛んになった。(中略)この直訳文化は日本から、その西隣の朝鮮、中国に向って新しい流れを造ったのである。だからこれを世界の動きから見ると・・・・・・・・・・最近世の日本の文化はヨーロッパのものをアジアに移す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中継文化・・・・支局文化とも言うべきものだった・・・・・・・・・・・・・・・のである。特に日本と中国では、言語の文法を異にするに拘わらず、漢字を共通に用いる関係から、ヨーロッパ語の翻訳がそのまま日本から中国に輸入された。(中略)日本の国力発展は隣接する朝鮮・・・・・・・・・・・・・・次には中国を犠牲にして行なわれたことは否定できない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。日本はいろいろな意味でヨーロッパとアジアの中継であったが、その中継を長く勤めるうちには自然に独自の立場、独自の性格を身につけるようになった。」(同上410―411頁)
 ターミナル的な文化が、知らぬ間に中継的な文化に変質したことによる悲劇か。

(6)日本の資本主義発展に英・米はどうふるまったか
 「日本の資本主義の発展は軍事力を爪牙(そうが)とし、軍事力は資本主義を背景として実現されたのであるが、やがて日本が中継以上の事業を企て、支局の独立を計るようになると、欧米資本主義の代表者たる英・米二国は相携えて日本圧迫に乗り出したのであった。それには、日本の軍事力に直接圧迫を加えると危険なので、搦手からめてから日本の資本主義に打撃を与えようとした。中国における日貨排斥のあとおし、米国における日本移民の締め出し、特にオッタワ協定における英領植民地の関税障壁による日本品排斥から、最後に第二次大戦直前におけるABCDラインに至るまで、軍事力圧迫にすれすれの執拗な排日政策がとられたのである。しかし最後には、武力戦争で日本の武装解除を行なわねばならなかった。後から見ればこれは資本主義諸国間の内訌で、共産主義の勃興に絶好の機会を与えたものであったが、当時の英・米資本家は、ついにこの点にまでは考え及ばなかったのである。」(同上413頁)
 世界史の教科書(山川出版)では、「反ファシズム諸国の支援」、「日本の南方進出の牽制」、「ABCDラインを形成して対抗」というように、日本に対する排斥を英米側の防禦的な姿勢として記述している。

(7)歴史研究者の責任
 「もちろん戦時中の日本の高慢の鼻は、敗戦で一度にペシャンコになった。すると今度はまたしても、とめ度のない卑屈なコンプレックスの再現である。日本民族は未開で野蛮で、不潔で不道徳で罪人である。日本の歴史はすべてが欺瞞であった。明治維新もインチキだったし、日清戦争も日露戦争も、日本資本主義者、侵略主義者のなせる罪悪だった、という調子である。」(同上414―415頁)
 「もともと自己を知ることは最もむつかしい。聖人でも自信がなかった。しかし日本人の自己評価がわずかの時間に、こんなに激しく上り下りするのは決して健康な状態ではない。世間を知らない田舎者がよく陥る心理状態である。対世間との関係において、自己に対する評価が安住の地を見出し得ないことから起る現象である。そして人生観は歴史観に通ずる。日本人の日本に対する評価が不安定であることは、日本の歴史を純粋に客観的に、世界史の中において見極めようとしないからである。とすれば結局、以上の責任は、われわれ歴史学研究者が負わねばならぬことであるかも知れない。」(同上415頁)
 近代史に対しては観念的な歴史解釈ではなく実証的な歴史研究が必要であり、戦後70年のいま、歴史資料も公平に活用しやすくなった時代ではないか。

(2016.1.11 記)