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1102号 世界史のなかの日本

2016年01月14日(木)

 日本は東洋のイギリスであるとよくいわれるが、しかしこのたとえ話は、実際に内容に立ち入って検討すると非常に大きな違いが両者にはあるという出だしで、宮崎市定は世界史の中の日本史の関係を論じる(日英の違い論はここでは省略)。
 「日本の統一が進んでいた紀元後の数世紀間は、中国では反対に、すでにでき上っていた古代的大統一が崩れはじめた時代である。日本の歴史と中国の歴史とは、最初の出発点からこうした食いちがいを示しているのである。」(「世界からみた日本の黎明」1959年 宮崎市定全集第21巻(日本古代)360頁)
 日本は中国に比べて周回遅れになっていた、と言うのである。

 「日本の金属器文化の受容は甚だ特徴的なものであった。それは遠くメソポタミアを出発した青銅器文化と鉄器文化とが、ほとんど時を同じくして、西暦紀元前後に到着したからである。即ちメソポタミアから日本まで、青銅器文化が伝播するにはおよそ三千年ほどかかったが、鉄器文化は約一千年で同じ道程を踏破したのである。つまり鉄器文化の出発がおよそ二千年ほど遅れていながら、両者はほとんど同時に到着したことになったわけである。」(「東洋史の上の日本」1958年 全集第21巻378頁)
 先発の青銅製の幌馬車と、おくれて出発した鉄製のトラックが、ほとんど同時に日本に到着したために日本は大変だったという説明である。一度ルートが地ならしされたところに、より鋭利な文化であった鉄の東漸は、進み方のスピードが速かったのである。(1059号「歴史とは何か」参照)

 「中国について言えば、青銅器を受け取ったのが西紀前1000年頃とすると、そのあとを追いかけて来た鉄器文化が、西紀前400年頃には既に中国に到達しているのである。すると中国の青銅器時代は六百年しか経かなかったことになる。従って中国においては、青銅器文化につきものの都市国家も六百年前後の歴史しか有せず、その歴史が短いということは都市国家の発達を不十分にした。中国に都市国家の時代が厳存しながら、それがともすれば歴史家の眼からすら逃れがちなのは、その都市国家的文化が完成されないうちに鉄器文化が輸入され、これに伴って大領土国家が出現したからである。」(同上377頁)
 一方で西進した青銅器文化は、距離的に近いギリシアには、中国より早く到達しており、近くにメソポタミア地方や小アジアの都市国家の例があったので、ギリシアは都市国家が発達し得た。しかし中国の歴史を対比させるときに、東方の専制政治、西方の民主政治といった過度に歴史の明暗を強調する態度は行きすぎだ、と著者は言う。
 なお鉄器の特色は鋭利、低廉、豊富さにあり、戦法も戦車戦を騎馬戦に変えてしまい「政治権力の集中を容易にし、古代の都市国家が衰微して、代って中央集権の大領土国家が成長してきた」(同上376頁)のである。

 「アジアの東西を貫く交通の大幹線において日本はその東の終点である。これから更に東は太平洋であるから進みにくい。(中略)さァ日本は大変だ。今まで新石器時代の惰眠を貪っていた日本人は、上を下への大騒動を演じた。新しい文化が輸入されるということは、今まで大した価値のなかったものに急に値が出たことを意味する。先ず第一に値が出たのは人間だ。人間をつかまえて楽浪郡へ持って行けば奴隷として買ってくれる。その代価に鏡だの刀剣だのをもらって帰れる。楽浪郡まで行くには船が大事だ。そこで船にする材木に値がでた。山から木を伐り、船をつくるには労力が必要だ。労力の根本は食物で、食物は土地から出る。そこで今度は土地に値が出た。新開地は新しい交通線の出現によってブームに沸く。将来どこまで発展するかもわからない。こういう形勢を見てとって、いわば大いそぎで広い土地を買い占めて大地主となったのが大和朝廷国家だ。」(同上378―379頁)
 二千年余の遠く過去にさかのぼる古代社会の変動の様子について、現代風の国土開発や列島改造のような比喩的表現描写がなされているが、そのインパクトについてはあながち的外れな説明ではないだろう。

 「(承前)だから日本の古代文化の性格は、それがターミナル文化だと言うことができる。そしてターミナル文化の特色は、植民地的であって、自然資源を売り出して、製造品を買い入れることにある。」(同上379頁)
 ここでは1つ前の引用とともに、豊富な人口を労力として輸出することを、海外移民や出稼ぎのような経済的とらえ方をしている。なお日本史教科書(山川出版)では「文物の入手」、「朝貢」、「銅鏡などをおくられた」などといった表現が使われており、大陸との貿易・交易関係としてとらえる観念が弱くなっており対照的である。

 「ターミナル文化は、中央と地方の文化の落差の最も激しいのが特色である。特に日本の古代の場合、その文化の傾斜は落差がひどく、まるで滝のような恰好で大陸から日本へ、日本ではまた中央から地方へと流れおちて行った。(中略)急に大陸から、青銅器をとびこえて、いきなり鉄器文化が流れこんだのである。戦争の上で言えば、まだ十分に団体の駆け引きの訓練もできておらぬところへ、大陸で研究に研究を重ねた末に出来上った騎馬戦術が入ってきた。いまさら戦車など輸入するひまはない。政治組織の上でも氏族制度の体制もはっきり規制づけられぬところへ、中国の古代帝国の触手がのびてきた。今さら都市国家どころの話ではない、こちらも対抗上、大きくまとまらなければならない。何をおいても統一だ。幸い中国とは距離が大はばに離れており、朝鮮の南部あたりで、漢の政治力の東漸が抵抗を受けている間に時をかせいで、何でも早く日本国内を統一しなければならぬ。氏族制度から一躍して古代帝国を造ろうというのである。多少の無理を我慢しなければできる仕事ではない。大和朝廷は地方豪族を討伐して、だまし討ちにしたり、寝首をかいたりして、遮二無二、統一の道を進んだ。勝ちさえすればいいのだ。理窟は後の人がつけてくれる。そこには後世の武士道のようなものはない。こういうやり方は、明治政府と大いに似たところがある。彼等の哲学は、権力が正義であり、勝利が名誉であることだけを信ずる。しかしながら、この大和朝廷が成しとげた統一のおかげで、日本の人民は外部世界の進歩に追いつくいとまを得て、一息つくことができたという事実も否定できない。だから大和朝廷がその被征服民に向って、自己を謳歌しろ、と言えば彼らは唯々としてそれを謳歌したのである。この点、後の明治政府も全く揆を一にする。」(同上380頁)
 辺境への諸々の文化伝播は前後の時間差が縮まってしまい、百花同時に繚乱する北国の春に似る。日本の中央集権、首都中心型の国家構造は二千年近い淵源があり、近代期にもこれが再現されたという説明であるから、いよいよ中央・地方の落差は根が深いことになる。

(2016.1.10 記)