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イッセイエッセイ

1100号 パリ講和直後の日中米の関係

2016年01月06日(水)

 教科書(山川出版社「詳説日本史」1993年)の記述や年表によれば、4年あまりにおよんだ第一次大戦(1914年8月―1918年11月)に、日本は日英同盟をもとに1914年(大正3年)に参戦し、中国も1917年にドイツ・オーストリアに宣戦し連合国の一員になっている。そして戦争終結による講和会議において山東半島(膠州湾)の権益が日中両国間の外交上の懸案となった。
 「時の原内閣は講和会議に西園寺公望らを全権としておくり、山東さんとう半島のドイツ権益を継承し、赤道以北のドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。しかし、中国では1919年5月から6月にかけて、山東半島の返還を求める学生・商人・労働者の一大国民運動がおこり、中国政府も講和会議の調印を拒否した。」(「詳説日本史」301頁)
 この一大国民運動というのはイクイク(1919)さきで示威運動と記憶される「五・四運動」のことである。
 一方、世界史の教科書(山川出版社「詳説世界史」2006年)の方では、次のように記述している。
 「1919年のパリ講和会議で、中国は二十一カ条のとりけしや、山東のドイツ利権の返還を提訴したが、列国によってしりぞけられた。これに抗議して、同年5月4日に、北京大学の学生を中心に抗議デモがおこなわれた。この動きは条約反対や排日の声となって各地に波及し、日本商品の排斥やストライキがおこり、幅ひろい層をまきこんだ愛国運動に発展した(五・四運動)。そのため中国政府もヴェルサイユ条約の調印を拒否せざるをえなかった。パリ講和会議で日本はドイツの権益の継承を認められ、赤道以北のドイツ領南洋諸島の委任統治権をえた。また国際連盟の常任理事国となり、国際的な地位を向上させた。しかし列国は東アジアでの日本の勢力伸張に警戒心をいだくようになり、1921―22年のワシントン会議ではアメリカ合衆国・イギリスなどが中国の主張を支持し、九カ国条約で中国の主権尊重と領土保全が約束されたほか、山東のドイツ利権が中国に返還された。」(「詳説世界史」314頁)
 この記述からは、当時の中国大陸における軍閥の跋扈と覇権争い、歴史的混乱の中での列強の思惑や取引き、利害にからんだ人物たちの動き等はさっぱり浮び上って来ず、事件のあとを議事的に記録した流れとしてわかるのであり歴史の力学を教えられるところが少ない。
 パリ講和会議では、中国は戦勝国になったがゆえにヴェルサイユ条約により膠州湾を無条件で日本から接取する期待をもち、日本側の方は中国の参戦以前に多大な犠牲を払って占領したのだから、宣戦布告のみで局外中立をきめた中国に対しては日本との交渉を通じて還付を求めるべきと主張した点に争点ある。
 このような当時の日中情勢について、「中国のめざめ」(東洋の歴史第11巻1967年 宮崎市定全集16巻2000年から)においては、次のように登場人物の批判もまじえながら記述する。中国近代史の他の歴史書に接するときにも、以下のような見方は1つの参考視点になると思うのである。(表題および傍線は小生)

(山東のドイツ利権とパリ講和)
 「1914年に勃発した欧州大戦は一般の予想を裏切って長期化し、18年に至ってドイツ、オーストリア側の敗北によって5年目に終熄を見た。連合国側はいずれもパリに全権委員を送って、講和条件を議したが、敗者と談判するよりも、勝利国側の条件を調節するのが最も困難であった。」(292頁)
 このような講和における困難性を、勝敗両者いっしょにして平板にとりあげない見方が面白い。
 「このときの日本全権は政界の長老で、あらたに誕生した原内閣のパトロンともいうべき西園寺公望であった。年すでに70歳に達し、活動が鈍く頭の回転も遅くなっていて、ことごとに遅れをとった。元老を尊敬する日本では政界に重きをなしていたが、一歩国外にでればでく・・の棒にすぎず、とうてい海千山千の列国外交官と伍して渡りあえる柄ではなかった。これに対する中国側の布陣は、陸徴祥・顧惟鈞・王正廷・施肇基しちょうきなどであり、このうち陸がロシア通なのを除き、他の三名はいずれもアメリカ留学生出身で、排日親米の傾向が顕著であるうえに、アメリカ政府自身が露骨に排日政策を推進しつつあった。辛亥革命(1911年―拙注)のころには革命党員中に親日派のみ多く、アメリカ育ちはほとんどなかったのであるが、その後10年もたたぬうち、アメリカ留学生出身はようやく政界に地歩を占めて、親米活動に乗り出してきたのである。もっともかれらは政治家として、どれだけ中国民衆に対して指導力を発揮しえたかという点は疑問であるが、国際会議などのさいに、大向うをうならすはったり・・・・芸にはまったくはまり役であったのだ日本代表はまったく無能無芸でいつも防禦にまわってうろたえるばかりであった。幸いに日本はイギリス・フランスに対しては終戦以前に領解をとりつけており、日本の地位はイギリス・フランス・アメリカ・イタリアと並んで、いわゆる五大国の一に数えられていたので、アメリカの執拗な運動にもかかわらず、膠州湾は日本と中国との交渉によって処置さるべきことが議決された。民国議員はこれにあきたらず、対独平和条約の調印を拒否して引上げた。アメリカにおいても上院は、平和条約中、膠州湾に関する条項を保留する議決を行った。」(同292―293頁)
 パリ講和における日本関係者の伝記などに目をもっと通す必要があるだろう。国際交渉の背景、各国の思惑、外交交渉能力など、日本の体制には足らざるところが多かりきであったのだ。

(アメリカの対日態度)
 「このころのアメリカの対日・対中国の態度をいまから振り返ってみると、うたた今昔の感にたえぬものがある。当時のアメリカ人にとって、なんでも悪いのは日本人であり、なんでも良くて憐れなのが中国であった。単純でお人よしの見方だといえばそれまでだが、これによって最も大きな損害を蒙ったのは、ほかならぬ日中両国であった。以後両者の関係はほとんど和解不可能までに悪化した。これは第三者たるアメリカからのけしかけがなかったならば、こうまではならずに済んだところであった。極度の感情の阻隔は長く続き、中国側から和解を欲したときは日本が和解せず、日本側から和解を欲したときは中国側が応ぜず、ついに破局に到着するのほかなかった。国民政府が倒れて中共政権が出現するに至ったのも、結局はアメリカの行きすぎた努力に負うところが多かったのだ。およそ一国の外交政策として、他の二国を離反して自国が良い子になって甘い汁を吸おうとするようなことは、たとえそれが義憤に出たつもりであっても、厳に謹しまねばならないことだ。それは二国を傷つけるのみならず、最後には自己をも傷つけるに至るからである。人を呪わば穴二つ。中国人に日本の侵略主義を憎めと教えたアメリカは、いまやその中国人から帝国主義だときめつけられて憎悪されるに至った。そのまた中国は今度は自分といっしょになってアメリカを憎めと日本に働きかけている。アメリカのアジア政策に対する反省は、このあたりから出発すべきである。でなければいつまでたっても正当な認識に達することができぬであろう。さすがにアメリカのライシャワー元大使は、日本と中共とのあいだで貿易を盛大にしろ、という。もしアメリカが50年前からこういう方針でアジア外交を推進していたなら、世界の歴史はだいぶん変っていたはずである。」(同293―294頁)
 アメリカの門戸開放政策の精神と日本の侵略行動が、第二次大戦に突入することとなる日米の誤解を生み、対立をもたらしたとみる通説通俗的な考えがある(『利益と理念』1080号)。『キッシンジャー回顧録On China』(762号参照)におけるキッシンジャー氏と毛沢東の抱いた米中・日本観は、米中が基軸であって、日本はあくまで付随である。

(五・四運動 1919年)
 「五・四運動はいわば今日の紅衛兵のはしりとも見るべきであろう。ただしその主張は必ずしも道筋のとおったものばかりとはいえない。中国がドイツに宣戦したのは、かれらにとって最も評判の悪い段祺瑞の内閣が、当時の進歩派の反対を排して、日本から参戦借款二千万元を得て実行したものである。このいきさつを知っている北京の学生たちは、だから段祺瑞排斥とはいえない。そこで曹汝霖らのいわば小物を目標にした。曹汝霖は例の21カ条条約に調印した責任者だというが、実は当時パリ会議で活躍中の陸徴祥の方が主な責任者であったのである。南方の学生たちが段祺瑞を排斥しながら、膠州湾の直接還付を求めるのは、いよいよ筋がとおらない。段祺瑞こそ参戦の功労者であったからである。五・四運動の意義はただ学生たちのやるせない憤慨を発露させた点にある。そこに何か理屈をつけようとすれば不自然になる。この運動の火つけ役のひとりであった北京大学校長の蔡元培は、事が意外に重大化したので、政府からも詰責され、
 君の馬を殺す者は道傍の小児よ。
と有名な文句を残して職を辞し天津へ去った。これは路傍の少年たちが拍子をとって喋したてると、奔馬は死ぬまで走りつづけて倒れるものだ、という意味だという。
 五・四運動が実際以上に高く評価されだしたのは中共政権成立以後
である。そこに現時の紅衛兵運動の出現する中共的体質があったのだ、ただ蔡元培の比喩が紅衛兵の場合にもっとよくあてはまらなければ仕合せである。」(295頁)
 文化大革命期の内部資料の読物が、その後日本に流入してきて様々な事実関係が明らかになったようだ。これによると、日本をふくむ外国人の中国近代史の史家は文革時には、資本主義学者と反動学者に分類され、後者の一人に著者もあげられていたという。後年、関係した学者が京都に移住してきた際その話に及ぶと、もうあの時のことは聞いて下さるな、と降参して見せたと全集第2巻の自跋(1991年)に書かれている。
 歴史研究とは、さまざまな角度と分析から専門的な研究が蓄積されることによって歴史の正当さに接近すると考えるのが学問的態度であろうから、ステレオタイプから脱した自由な新しい業績を期待しなければならないのである。なんといっても20世紀前半の日本史が、子供たちのために、言葉の本来の意味でもっと面白く書かれなければならない。歴史書は将来のためになるような精神でもって書かれなければ面白くないのである。

(2016.1.5 記)