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イッセイエッセイ

1096号 数学と禅

2015年12月27日(日)

 「春風夏雨」(1965年)は、岡潔先生(1901―1978年)が学者として数学の難問研究に没頭集中するときに、体験する精神状態を読者にわかってもらえるよう説明できにくいことをなんとか説明しようとしているエッセイ集である。そのためか「禅と数学とは、本質は同じだと思われる」とまで言っているように、本書の表現は随所で禅味を帯びている。
 「数学の本質は禅と同じであって、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集め続けてやめないのである。そうすると客体の法が次第に(最も広い意味において)姿を現わして来るのである。姿を現わしてしまえばもはや法界の法ではない。
 道元どうげん禅師はこういっている(「正法眼蔵」上巻 現成公案げんじょうこうあん
 『心身をきょして色を看取し、心身を挙して音を聴取するに、親しく会取えしゅすれども、鏡に影を映すが如くには非ず。一方を明らむれば、一方は暗し』
 親しく会取するまでが法界のことであって、鏡の映像をよく見ることは自然界のことである。」( 岡潔著「春風夏雨」平成26年角川ソフィア文庫所収、「絵画」からの一節)
(参考)
 「法」―禅の言葉であり、欧米流でいえば存在のこと。「主体である法」―「真我しんが>」のこと、主宰者としての働きと不変のものという本質の二面をもつ、本能の所産が「自我」、自我を抑えて無差別知を働かせている時に「真我」があらわれる。「法界」―自他の別や時空の枠のない世界。わかり方の三段階―知解ちげ情解じょうげ信解しんげ。「信解」だけが「本当に解る」という意味で純粋に法界の現象。

 「法界のみが実相じっそう界であって、社会や自然界は仮象かしょう界である。真善美妙しんぜんびみょうは法界にしかない。私は真善美は『実在』であるが、妙(宗教)は『必要』だと思っている。」(同79頁)
 パスカルの「護教論」(「パンセ」ファイルA11)のもとにある幸せをめぐる「独断論」(本能)と「懐疑論」(知識)の対立を救う道について、パスカルが「地上に安心立命を求めるな。人間から何も期待するな。きみたちの善は神のうちにしかない」、「人間たちに、彼らを幸せにすることのできる秘訣を教える」と書いている解決の「秘訣」がこの「必要」に当るか。

 「繰り返していうと、数学の本質は、主体である法が、客体である法に関心を集め続けてやめないということである。このことは当然『算数』のはじめからそうなのである。だから算数教育は、まだわからない問題の答、という一点に精神を凝集して、その答えがわかるまでやめないようになることを理想として教えればよいのである。答えがわかるというのは、当然自分にわかるという意味であるから、以前のように験算はやらせた方がよい。」(同75頁)
 突然ここに現実的な「験算」の話が持ち出されるのは妙なのだ。しかし、験算というものが法界の謎を自然界の方から幽明の橋渡し行為として「知解」的に確かめることであり、これを子供ながらに行うことが験算なんだと思うのは考え過ぎか。

 「関心の持ちやすさのことであるが、社会のものについては関心を持たないでいることがむしろむずかしく、自然界の『もの』にはまだしも関心を集め続けやすいが、法界の法に関心を集め続けることは非常にむずかしいのである。」(同76頁)
 かくのごとくこの随筆集から数節をとり出してみても、著者のそれ以前の「春宵十話」に比べて、精神的な思想世界に深く入りこんでの表現が多く、難解かつ筆致は縦横無尽なところがあるのである。

(2015.12.19&年末 記)