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イッセイエッセイ

1095号 雑想(12)

2015年12月27日(日)

(見える範囲)
 目の前にいつも見ているものに対しては、吾々は異様な感じはもたない。逆にたとえば、いま消費税の税率引上げに関しては新聞紙面がにぎわっているが、新税は悪税であるという有名な法諺も、目の前にない新しく出現してくるものへの拒否を示す心理である。
 先日、「ひるぶら」というテレビ番組(11月10日)を見ていた。それは東京湾に注ぐその昔は自然な運河になっていた河川を、船で巡って隠れたスポットを楽しむというものであった。
 1960年代の東京オリンピック以前であれば、きっとこのテレビ映像に写っている場所は、きれいな水の都を代表する東京のスポットであったはずだ。さらに遡って関東大震災以前そして江戸期に立ち戻れば、さぞかし趣きある川辺の景観が展開していたであろうと想像したい。
 もし当時の人たちが突然に今につれてこられ、現在の風景を眺めたとしたら、びっくり仰天するであろう。美しかったはずの水路の上にこれらを覆うコンクリートの橋がいくつもに重なっており、一体何が起きたのか分りかねるであろう。もちろんすべての景色がそうであろう。
 過去はすべて下へ下へと沈んでゆき、われわれの見るものは目の前にある現在の物の表面ばかりである。それを無邪気に昔からそのようにずっと在ったと見ているだけである。このことは東京以外の他の町にも等しく当てはまるのである。
 自分たちの視野の遠さや広さに関しても、目に見える限りのものを全部だと思い込んでいる。人間は自分の背中が見えなくても平気でいる位であるから、狭い了見のままに見える範囲の限界の中で、特別なにも感じずに当り前で生活しているのである。
 先日、浅水川の堤防の道を西に向って日野川の方に車を走らせていた。子供の頃、福井へ遊びに行き帰るバス道は、いつもこの川の対岸の堤防の道であったことを想い出した。
 辺りのたたずまいは今の目には広く自然に目に映る。しかし、そこからやや遠く眺められる昔育った町や里山の景色に目をやったとき、子供の頃の視野にはさっぱり入っていなかったことに気づいたのである。バスが通り過ぎる道すがら、一つひとつの対象には注意が向いていたので窓から見える川辺の橋や神社の様子、停留所、街道筋の商店や家々などは、今でもその記憶が多少あるが、全体の広い風景は目には入っていなかった。
 おそらく年齢とともに視野がだんだんと広くなり、高校生の頃になってようやく大人の風景にまで広がっていったのではないかと想像する。そして細密な子供の頃の風景も、現在の事物に邪魔されまた記憶そのものがあいまいになって、いよいよかつての風景は遥か昔なのである。
 近所の風景でも毎日住んでいながら、改めてふり返れば20年前とは隔世の感これあり、子供たちの出入りするあの通りの家々の所には、昔は秋になると稲穂が垂れていたなどとは、自分も忘れかけており、いわんや彼らがどうして想像できようか。おとぎ話の浦島太郎が月日が達つのも夢のうちと浜辺で落胆したのは早計で、さほど年月は過ぎていなかったのであって、玉手箱を開けることはしなくてよかったのかもしれないのだ。

(落下は限りなく)
 物は限りなく下の方には落ちてゆける。車に乗ったままメモをとったりしているとき、ペンのキャップがよく外れて落ちることがある。あやうく膝の間でキャップを止めて押えて元に収める。そうするうちにまた車が揺れて、キャップが膝を跳ねてどこか見えなくなってしまう。今度は体をずらして周りを探さなければならない。ようやく座席シートの横に落ちているのを見つる、と思った瞬間にさらに下に落っこちて、シートのすき間に入ってしまう。のぞき込んでも誰処にも見当らない。もう一度気を入れてあちこち探しまわると、座席のずっと後ろの床に転がっている。後向きになって手を伸ばしキャップは元のサヤに納まる。
 しばらくこのような愚なことを繰り返しながら、物として落ちるものは、限りなく落ちてゆくという当然にして当り前のことを思った。
 このようにして物はそうなのだが、持主の人間の側だって同じ運命なのだ。注意をしていなければ、上の方に良くなることは難しい。逆の下方向の運動はいとも簡単であり、その行先も、人間の場合はもっときりがないのである。

(つながりの心)
 相手の立場に立つということは、まず良きその行為によるだけでも、相手の為につながるということである。あわせて反射的にではあるが、自己にとっても有益に働くということである。何故ならかたくなに自身を押してゆく生き方とは離れるのだから、その行為そのものに祝福が宿るはずであるからである。これは、情は人の為ならずといった功利的な処世法とは生き方がちがうのである。
 加えて相手の立場に立つということは、相手を理解しようとする心の傾きに他ならず、この心の持ち方によって、自他の心のつながりが生まれるのである。そのことにより相手の心を測ることを自然と容易にする。他の心を知ることほど難しいことはない、にもかかわらずである。
 心がつながっていることの重要性は、宗教の世界でも例えば福音書の中で繰りかえし言われていることである。身近な話になるが、菜園の植物にしても、枝葉を切られたり踏みつけられて傷められることがある。しかしその部分が根っこにつながってさえいれば、水と光で再び生き生きしてくる。反対に根からいったん切り離されてしまうならば、いま元気に見えるものも明日にはたちまち枯れている。

(2015.12.22 記)