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イッセイエッセイ

1094号 地理と歴史

2015年12月26日(土)

 「16世紀後半から毛皮などを求めてシベリアを東進したロシアは、17世紀前半に太平洋岸に達すると、南進して黒龍江省にあらわれ、清と衝突するようになった。」(254頁)「詳説世界史」(山川出版社1997年版)
 以上は、1990年後半に検定されたやや古い世界史の教科書での、ロシアのシベリア東進の記述である。より新しい版の教科書には現代史の部分が必然的にふえたためか、記述が見当らないようだ。ともかく教科書の説明は簡単であると同時に平板すぎて、興味の方面からはどうにもならない。
 以下は宮崎市定らが書いた京大東洋史からの一節である。
 「シベリア地方の住民はその南のモンゴル民族よりもっと文化のおとった民族で、森林のなかに狩猟をおこないながら原始的な生活を送っていたので、ロシア人は容易に彼らを征服し、毛皮の貢納を強制することができた。そして西ヨーロッパ地方はようやく文化がすすむとともに奢侈品である貴重な毛皮を要求するようになったので、ロシアのシベリア征服はますます拍車をかけられることになった。
 トボルスクについでトムスク、ついでエニセイスク、ヤクツーク植民地がたてられ、1638年には太平洋岸に到着してオホーツクが建設された。ここにアジアの北部を横断する新しい交通の幹線が成立したわけである。現今ではこの交通路の役目を、もっと南に下ったところを走るシベリア鉄道(拙注 1891着工~1903開通)が果している。ロシア人が最初にこんな北の方に交通路をひらいたのは、東進の目的が毛皮の獲得にあるため野獣の多く住んでいる森林地帯をめざした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こと、交通の便宜のため河川がなるべく東西に流れる部分をえらんだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こともあるが、またもっと南へ下るとずっと文化の高いモンゴル遊牧民がいるので、その抵抗を恐れた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ことにもよるのである。」(「宮崎市定全集」16巻の“東亜の近代化”1952年から15頁)<傍点―小生>
 記述を読んでみて感じるとおり、歴史における舞台となる場所ないし地理的条件が、歴史的な叙述の中にうまく融合して組み込まれているので、歴史の説明にとっての地理の重要性がよくわかり、ロシアの「シベリアの征服」の意味も深く理解される。(611号「地人論」、769号「地理学への関心を」参照のこと。)

(参考)

 各々の世界史的民族がそれ自身もっている特殊的な原理は同時に、その民族の自然規定性なのである。そしてこの自然性の衣を着た精神の特殊的な諸形態は分散的な形をとる。というのは、分散性こそ、自然の形式だからである。ところで、この自然の区別は、まず精神が発生するための特殊的可能性とも見らるべきものであって、その意味では、自然の区別こそ、ここにいう地理的基礎でなければならない。(ヘーゲル「歴史哲学」世界史の地理的基礎178頁 岩波文庫)

(2015.12.23 記)