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イッセイエッセイ

1089号 断章からの断片

2015年12月22日(火)

 最近、パスカルの瞑想録の新訳が出版された。「パンセ」(上・中・下)塩川徹也・訳(岩波文庫・2015年8月)である。すでに私の手元にあって時々読んでいたのは、中公文庫版の「パンセ」(昭和57年)であって、前田陽一・由木康共訳のものである。パスカルの遺稿をもとに死後に刊行されている本であるため、原本や写本また後になされた出版会社のどれに依るかによって、体裁はかなり変るらしいのだ。今回の日本での翻訳の新版も、これまでよりはずいぶんと順序や纏め方が違っている。また、訳者の注書きが要所に付記されていて、以前のものよりわかりやすい形式になっている。
 こうした種類の本は私には、残念ながら初めから終りまで通しで読み了えられるような関心のものではなくなった。しかし考え方を変えてみて、パスカルの手稿それ自体が断片とその集積から成っているのだから、平凡な読者が読みやすいところから断片的に読んでいっても、許してくれるだろうと独り決めする。以下、(上)巻のさらに前半部分から、付箋をした気になる部分を抜く(そして感想も若干加える)。

 「懐疑論に従わない人々の存在ほど、懐疑論を強化するものはない。もし全員が懐疑論者であれば、懐疑論は間違っていることになるだろう。」(断章33)
 (A)真理の存在は、疑わしい。(B~Z)その通りだ、真理の存在は疑わしい。/(A)大地は動いている。 (B~Z)天空の方が動いている。
 上記二つの違い。

「想像力。これこそ、人間のうちなるあの支配的部分、あの誤りと偽りの親玉、いつもうそをつくとはかぎらないだけに・・・・・・・・、いっそう嘘つきの親玉だ。」(断章44)<傍点は原文に付されている>
 パスカルの発想の端初は、モンテーニュー(随想録)に発するものが多い。なお、モンテーニューが「運」と「偶然」の仕業にしているものを、パスカルの方は「想像力」に帰している、と訳注は解釈する。
 前田訳では本章は、「これは人間のなかのあの欺く部分のことである。あの誤りと偽りのぬしであり、いつもずるいと決まっていないだけに、それだけいっそうずるいやつである。」(こちらはブランシュヴィック版によっており、断章82に位置する。)新訳の方が明解だが、もとの文が明快なのかどうかはわからない。
 「想像力」が、アメリカ的なプラグマティズム・積極主義・楽観主義で扱われると、人生訓などでは克服すべき一種の弱気として注意が向けられる。「カーネギー名言集」(創元社)を例にとろう。これはデール・カーネギーが愛用した名言を夫人が編集(1959年)したものだが、その中に第2章「信ずる心」というのがある。「年月がたつにつれて、私は徐々に自分が悩んでいたことの99%は決して起こらないのを知った」(カーネギー)、「遂に起こらなかった害悪のために、われわれはいかに多くの時間を費やしたことだろうか!」(トーマス・ジェファーソン)、「困難を予期するな。決して起こらないことかもしれぬことに心を悩ますな。常に心に太陽をもて」(ベンジャミン・フランクリン)など多くの例が挙げられていて、「想像力」をたくましくする無意味を説いている。

 「想像力はすべてを思いのままにあやつる。それは美と正義、そしてこの世のすべてである幸福を作り出す。」(断章44)

 「圧政とは、ある経路を通じてしか入手できないものを、他の経路を通じて入手しようと望むことである。」(断章58の2)
 パスカルの言う「圧政」は、「おのれの領域を越えて全体を目指す支配力」、「不当で行きすぎた支配欲」を示すパスカル独特の政治用語である。(訳注から)

 「もしも私たちの境遇が本当に幸福だったとすれば、わざわざそこから気をそらせて、気晴しをする必要はないはずだ。」(断章70)
 「仕事以外に何か気晴しをしておられますか?」と尋ねると、大抵やや奇妙な表情で答えが返ってくる。

 「今の快楽が偽りであることは感じられるが、遠くにある快楽のむなしさは分らない。移り気の原因はそこにある。」(断章73)

 「唯一の普遍的なルールは、通常の事柄については国法であり、その他の事柄については多数決である。どうしてそうなるのか、そこにある力のせい・・・・・・・・・である。」(断章81)<傍点―私>
 続いて、
 「正義に力を与えることができなかったので、力を正義としたのである。それは正義と力が一緒になって、平和をもたらすためであった。平和こそが究極の善なのだから。」(同)
 この考えは、マキャベッリとどうちがうか。

 「知識には、互いに接する両極端がある。一方の端は、自然でのままの無知であり、人間はすべてこの状態で生まれる。他方の端は、人間の知のあらゆる可能性を踏破したあげく、何も知らないことを悟る偉大な魂の持ち主たちがたどり着く無知であり、ここで彼らは、出発点と同じ無知のうちにいる自分に出会う。しかし、それは、学ある無知、おのれを知る無知である。中間の連中は、生まれつきの無知は脱しても、他方の無知に行き着けないので、このうぬぼれ知識のうわべをなでて聞いた風をする。彼らは世間を騒がせ、すべて間違った判断を下す。民衆と識者が世の中の動きを作り出す。中間の連中はそれをばかにして、彼ら自身ばかにされる。彼らは、すべてのことに間違った判断を下すが、世間は正しく判断する。」(断章83)
 モンテーニューは、自分も他の多くの仲間と同じであると断りながら、中間の人たちは「危険で無能、そして厄介だ。この連中が世間を騒がせるのだ」(第1巻54章)と述べる。上記はここから由来しているパスカルの考えらしい。(訳注より)

 断章81に関連して、以下でも正義と力の関係が述べられている。
 「もし可能であれば、力は正義の手中に置かれていたことだろう。しかしながら力は実質的な性質であるために、思いのままにあやつることができない。それに対して正義は精神的な性質なので、思いのままに左右することができる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。そういうわけで、人々は正義を力の手中に置き、そうして、従わざるをえないものを正義と呼んだ。」(断章85)<傍点―私>
 「剣の正義はそこに由来する。なぜなら剣は本物の権利を与えるのだから。」、「さもなければ一方に暴力、他方に正義が向き合うことになるだろう。」(同)
 力と正義に関しては、断章80以下の「現象の理由ファイルA5」に分類されている項目について、訳者の注解が付されている。それによれば、「現象の理由」とはパスカル独特の用法であり、とくに観察者に不思議な思いをさせる「事実」を「現象」ととらえ、このような「事実」についての「理由」、つまり事実を「説明する原因」であり「正当化する理由」が何かということである。つまり一見不思議に見えて、実はそれが「理性」にかなっていることを示すところの「理由」をさしている。この「現象の理由」は、一般にパスカルにとって「民衆の意見の健全さ」(やや皮肉な調子があるが)と同視されるらしい。

 「私たちの行動はすべて、欲心と力を源泉としている。欲心が自発的な行動を、力が他律的な行動を行わせる。」(断章97)

 「正義は言い争いの種になる。力のあるなしを見分けるのはたやすく、言い争いの余地はない。こうして正義に力を与えることはできなかった。力が正義に言い逆って、お前は不正だと言い、さらに正しいのは自分だと言ったからである。こんなわけで、正しい者を強くすることができなかったので、強い者を正しいと定めたのである。」(断章103)
 ジャイアンが正しく、これに従うスネオ君もやや正しい。これはノビ太君が正しくなれないのと同様に正しい。ドラエモンの力は主張する力ではなく、夢の技術力である。誰もが勝っていないので勝負のつかない平和な社会なのである。

 パスカルの生きた時代をしらべてみると、日本では江戸時代の初期にあたる時代である。こうした昔の人であっても現代の日本語に反訳されてしまうと、それほど昔ではない身近な人の声にきこえる。しかしパスカルの言葉はあの世から伝わってくるような感じがして、だんだんあの世に行って聞いているような感じをいだく。

(2015.12.上旬 記)