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イッセイエッセイ

1088号 「流れゆく日々」―作家と私の時の流れ(2)

2015年12月20日(日)

 次に最初に戻って第一巻は、1970年(昭和45年)のものであり石川達三が65歳の頃である。

(作家の現実的感覚)
 「江藤淳『漱石とその時代』を読む。いわゆる伝記ものの甘さが一滴も無いのが良い。私は漱石については全集をほとんど全部読んでいるが、伝記的な面は全く知らなかったので、おどろくと同時に、彼の作品を改めて考え直すことが出来そうに思われて来た。(大略)その小説も文人墨客的な態度で書かれたものであって、小説に生涯を賭けたというようなものではなかったと思う。つまりディレッタントであった。私が漱石についてどうもつまずきを感じるのはそういう所であるらしい。前後二巻、江藤君にとっては大変な労作であるが、この労作は、経済的にどのくらい報いられるのだろうか。」(昭和45年10月1日)
(注)この日が、日記「流れゆく日々」の初めである。すぐ印税の話題に行きつくところが現実的である。

(いまは亡きアナキストと利害打算の現代)
 「午後、また神経性の不整脈発作。三時間つづく。原因不明。(中略)『展望』11月号『日本アナキスト群像』という対談を読む。秋山清、多田道太郎両氏のはなし。大変に面白い。(中略)この話に出てくる和田久太郎、大杉栄、渡辺政太郎、久板卯之助、古田大次郎その他の人々の、何とも言えない人間的な美しさと清潔さとに、心が洗われる思いがした。(大略)彼等の人間的美しさは無慾の美しさではなかったか、という気がした。しかし、人間的な美しさというものの価値が、現代では、あるいはもう下落しているかも知れない。そんなものは生活の足しにはならないという、利害打算の時代でもある。損得の計算がはっきりしている事にだけしか、人間は興味を持たなくなってきた。そこで、1つの逃げ道として、道楽というものが意味をもって来る。せめて道楽は無慾から出発したものでなくてはならぬ。」(昭和45年10月14日)
(注)この年1970年は万博の年である。「利害打算の時代」を当然にして当り前とする経済学は、未だ登場していなかった時代である。

(筆者晩年晩秋の日常
 「起きて直ぐ散歩40分。そろそろ朝の寒さが加わる。夜はオリオンが見えるようになってきた。午前中O氏を訪ね鍼の治療をしてもらう。佐渡から柿到着。毎年たのんで送ってもらう。秋のたのしみの一つ。」(昭和45年10月20日)
(注)すでに数箇所で川端康成を引用したが、川端の日記風の随筆からもう一つ。「電氣治療に行く。石川達三夫婦に會ふ。石川さんは東南アジア文化使節の旅行から歸ったばかり。五十腕と。・・・」(『ある日』昭和31年9月。「文学界」の19人のエッセイ集から。この雑誌特集には石川達三も書いていると解説にある)。石川達三51歳、川端康成57歳、石川達三の上記日記から15年前のことである、互いに近所に住んでいたらしいことがわかる。

(選挙権年齢の引下げ論)
 「ちかごろはまた、有権者の年齢を十八歳に引下げようという動きがある。民主政治は更に一層下落する。質的に下落させた方が、政治家たちに取って選挙がやり易いものになるのであろうか。」(昭和45年10月28日)
(注)今から40年以上も前に、すでに18歳選挙権の議論が顔を出していたということである。現実化するのに半世紀近くかかったことになるが、政治の進歩というべきかどうか。

(子供の可能性とロマンチシズム)
 「教育者たちが合言葉のようにして言う(子供の素質のうちにひそむ無限の可能性をひき出す・・・)というロマンチックな考え方が、どんなに教育界を毒し子供の親たちを迷わせているかを、西氏(拙注 独文学者の西義之)が鋭く指摘しているのを読み、大いに同感する。実は『人間の壁』を書いた当時から、この合言葉に私は漠然とした不安を感じていたが、それを教育上のロマンチックな夢とまで厳しく批判することが出来なかった。いま西氏の短文を読みようやく自分で割り切れたような気がした。」(昭和45年11月10日)
(注)可能性に対して無限というような無定量の形容詞をつけるから、教育効果に疑問が出ると主張しているのだろう。しかし、子供の可能性を余りに低く考えたり、無視してしまっては教育はおぼつかない。

(ド・ゴール氏の死)
 「この日、ド・ゴール氏急死。何だか大変なごうつくばり・・・・・・で、その傲然たる態度に、胸がすくようなものがあった。あの自信の深さは日本の政治家には無いもののようだ。心臓の発作による急死であったが、ずいぶん酷使された心臓であったろうと思う。その丈夫な心臓が、十数年にわたってフランスを支えて来たわけだ。」(昭和45年11月10日)
(注)筆者の人物評価は一般にきびしいものであるが、ド・ゴール元将軍に対してはそうでないようだ。

(水上勉と筆者の素質)
 「夜、雑誌類が机上にたまったので拾い読みする。水上勉君が雑誌『海』に宇野浩二伝を長々と書いている。彼の宇野氏に対する情熱のふかさには感心する。一人のひとにこれだけの熱意を傾けることのできる人を羨しいと思う。私にはそういう事が全くできない。自分では解らないが、どこかでそれがかなり大きな私の欠点になっているのだろうと思う。」(昭和45年11月12日)
(注)福井出身の水上勉と作家仲間では気が合っていた。このことを示す記述がいくつかある。

(三島由紀夫の割腹自殺事件)
 「午後一時のラジオ・ニュースで、三島由紀夫君が市ヶ谷の自衛隊に楯の会の同志4人と共に押し入り、数人を傷つけたうえ、割腹自殺をした事を知る。何よりも何よりも、もっと自分を大切にしてほしかったと思う。あの男ならやり兼ねないという気もするが、また一方、それをやって何になるのかという怒りも感ずる。(中略)電話で、二三の新聞社から所感を求められたが、自分ひとり悟ったような顔をして批判がましいことを言うのが厭だったから、全部ことわった。」(昭和45年11月25日(水)晴)
(注)小生はその日、旧い時代の建物の国会図書館で仕事のものを調べていたと記憶する。三島自殺のニュースがその場にもすぐに伝わってきた。日記では天気が晴となっているが、当日は曇りの印象がつよいのはこの事件の性質のせいか。

(子供の遊びとノスタルジ、いまならゲーム)
 「子供たちはテレビを見、漫画本を読む。受け取るばかりであって、創造的な努力も工夫もない。いくらテレビを見ても子供は心の中に自信を育てることはできないし、身を以て何かを為し遂げたという歓喜も味わえない。夏の海や冬のスキイに子供を連れて行くのもいいだろうが、私はそれよりもベエゴマや凧やメンコや竹とんぼや竹馬のような、古くから行われた子供の遊びを復活させてやったら良いだろうに、と思う。(昭和45年11月29日)

(政権と国会への不信)
 「私は今年のはじめ、著作権法が国会に上程されたとき、公述人となって少しばかり陳述をして来たが、その時の印象から言っても、今度の公害問題を見ても、国会などというところは全く無用の長物だとしか思えない。厖大な国費を使い、時間をかけ、民主政治の形式を追うているばかりであって、本当は日本国のためにも人民の為にも、殆ど何の役にも立ってはいないように思われる。結局政府与党はやりたい事をやり、やりたくない事は何もやらないのだ。だから私は、参議院などという馬鹿なものをやめてしまって、その代りに、衆議院よりも一段と高い所に立ち、衆議院の決定を差し戻して、もう一度審議させるくらいの権威をもった、(枢密院)的な機関を置かなくては駄目だ、というように考える。佐藤栄作のような決断のできない、のらりくらりの人物に、大統領的な一切の権限を与えていたのでは、国民は非常に迷惑する。」(昭和45年12月3日)

(わからない小説家)
 「スタンダールも読み切れないが(注「赤と黒」ではなく「パルムの僧院」のことのようだ。)、大江健三郎も私には読み切れない。『万延元年のフットボール』など、二度読みかけて二度とも投げ出した。何を書こうとしているのか、それすらも解らないのだ。私が悪いのか大江君が悪いのか。その大江君の本がベスト・セラーだというから、解らない私の方が悪いらしい。しかし私にも開高健は解る。田久保だって丸谷だって後藤明生だって、みんな解る。ひとり大江だけはまるで解らない。(中略)或る人に聞いたら、(あれはムードで読むんだ)と言った。音楽ではあるまいし、散文はそういうわけには行くまい。どうも解らない。」(昭和45年12月4日)

(結婚に対する今との感覚のちがい)
 「統計によると最近の日本人の離婚の理由として、良人の側からは(妻の性格が厭になった)というものが多く、妻の側からは経済的な問題が最も多いという。物価の上昇にくらべて良人の収入はふえない。妻はいつも経済的な不満を感じている。しかも消費宣伝の大攻勢のなかに在って、家庭のなかの消費生活を司る妻のいら立ちも解らなくはない。(中略)そして良人の眼から見れば、外部の力に曳きずり廻されているような妻の、不安定な心が次第に我慢ならなくなる。たしかに、女は駄目になったと私は思う。女をだめにしたものは消費ブームとレジャーブームと、そして女性解放の思想だ。その駄目になった女を堅実な姿に引き戻す力がないというところに、男のだめさがある。結局、お互いに何度離婚しても良い家庭を造ることはできないだろう。(中略)だから母親たちはしばしば、自分の産んだ子供を邪魔もの扱いしている。」(昭和45年12月16日)
(注)良人などという語は今では死語である。日記のほかのところには、ウーマン・リブ、フリーセックス、産児制限、未亡人、性解放、ストライキ、造反、ヒッピー族など、懐かしく今ではすたれた言葉がいろいろ出て来る。

(2015.11.10 記)

(しきたりの大切さと女性)
 「冬至。夜は柚子湯。小豆粥を食べる日、南瓜を食べる日だと言う。こうした年中行事を近代人は軽蔑して、ほとんど実行しないらしい。正月の七草粥とか端午の節句のかしわ餅とか、情緒ふかいものが少なくないのだ。その1つ1つの仕切りが一年という永い年月の平凡な日常の中の、小さな美しいアクセサリーとなって、生活に変化を添える。仕来りを守り実行するのはほとんど女の仕事だ。(中略)やはり古い仕来りというものは大切にして置きたい。」(昭和45年12月22日)
(注)それから40年余、季節ごとの伝承や習慣はどれくらい残っているだろうか。

(防災という言葉のない頃の大雪)
 「寒さのため庭の雪がなかなか融けない。ちかごろは僅か三四寸の雪のために、新幹線が止ったとか国内航空便が欠航したとか、高速道路が閉鎖されたとか車がスリップ事故を起したとか、しきりに故障が起きる。そのたびに国鉄や高速道路が非難を受ける。しかしあれは話が逆だ。雪は大変である。雪が降ったら何もかも取りやめて静かにしておれば別に問題はおこらない。雪が降ったにもかかわらず平素と同じように走ったり飛んだりしようとするから問題がおこる。なぜそうまでして走りたがるか。・・・それほど生活があわただしくせちがらいのだ。罪はその事にある。国鉄や高速道路が悪いのではない。」(昭和46年1月7日)
(注)この記述は「公」に対してなぜか好意的である。筆者の生活と直接関係ないからか。

(公費教育と教育の独立)
 「日本の軍国主義化などと言われている時に、全教育の公費が実現したとすれば、その教育は、軍国主義化に拍車をかけるものにならないという保証はないのだ。だから教育公費論は理論だけではなしに、その実施過程によほど深い考慮を払って貰わなくてはならないと思う、日教組はずっと前から四権分立ということを言っている。つまり教育は立法司法行政の国家機関から、一切の干渉を受けないところで、完全に民間人の手にゆだねられなくてはならないというのだ。それが教師たちの理想であるとすれば、公費教育を要求する考え方とはかなり大きく矛盾するようだ。」(昭和46年1月18日)
(注)もはやこんな議論は成り立たないような社会環境になっている。

(政治参加と民衆)
 「午後四時週刊新潮記者来訪。インタヴュー。近頃の政治や選挙法などについて雑談。民主社会の進歩のためには大衆の政治参加が必要だというのが、一般の定説であるらしい。その民主社会という発想そのものが、政府を信じないところから出ている。本当に政府が信じられる状態であるならば、民衆は決して政治参加など希みはしない。安心して任せて置きたいのだ。任せて置けないからこそ民主主義などという方法を考え出した。民主主義政治とは本来そういう不信感の上に成り立っている悲劇的な政治形態である。」(昭和46年2月8日)

(2015.11.某日 記)

(日本文学の国際的な普及)
 「私は文化庁に一つだけ頼みたいことがある。外国人にとって日本語は難解で、従って日本文学日本詩歌は外国人に読まれる機会が少ない。国費を以て翻訳ビューローのようなものを造り、特別委員によって選定された文芸作品を外国語に訳し、そのコピイを外国の出版社に送付推薦して、向うで出版される機会を多くする・・・というような種類の仕事をしてほしいと思う。(中略)気まぐれな外国人が翻訳するのを黙って待っているのではいけない。日本語の壁は内側から切り開くべきだ。」(昭和46年2月14日)
(注)この主張はわるくない。

(出版社社員が作家を電話に呼び出して道順をきく)
 「そういうことが無礼だということを知らないし、気がついてはいないのだ。彼にとっては教えられ、又は叱られることが必要だった。ところが近頃は年長者や目上の者が、目下の者や若い人を、叱らなくなった。教えさとすということが非常に少なくなった。教えても素直に従わず、叱っても言うことを聞かなくなった、だから人と人との関係が錆びついた機械のようにきしんで、なめらかに動いて行かない。人の世の中が不必要に住みにくくなっている。やはり面倒でもひとつひとつ、叮嚀に叱らなくてはならない、と思う。それが長く生きた者のつとめだ。」(昭和46年2月16日)
(注)長く生きた者(年寄ということになる)は、早く亡くなってしまった人達に感謝の心がいる。情報や記録を記憶する必要のない時代になり、昔よりは年令の古さの値打ちは少なくなっているとみられるが、昔の時代の噴囲気や事件の印象はその時生きていた者しか分らないので、できるだけ正しく伝える義務がある。若い人は頭の知識はもっていても、直接身についた性質のものが少ないので、耳から入る助言も聞きながしがちであり実行に至らないのである。

(・・・は寒かろ東京は)
 「裏日本は吹雪だという、余波を受けて東京も夜はひどく冷える。しかし日中は日射しが強くなり、温度が上った。松本清張君から電話。いきなりブルガリアへ行って見る気はないか、向こうの国の招待だという。いささか唐突で、健康に自信もないので辞退した(後略)」(昭和46年3月7日)
(注)「裏日本」というなつかしい言葉に遭遇したので引用したまで。日本海側は「雲日本くもにっぽん」なのである。なお筆者は秋田・横手出身である。清張氏とは気風が合い、他の日記のところからみても好意をもった文士仲間だったようだ。

(言論の自由を守る方法)
 「言論の自由を主張することは、何でもない。そんなものは言葉に過ぎない。しかし言論の自由を(守る)ということは、闘いだ。作家の言論の自由を支えてくれるものは、憲法ではない。そんなものが何の力になり得ようか。だから、作家自身の側に自衛の姿勢が無くてはならない。作家の自衛とは、第一に官僚統制に手がかりや口実を与えないこと。第二には民衆の支持を得ることだ。民衆の支持は、作家が言論表現の行使によって、徐々に獲得して行くべきものだ。ポルノグラフィーに類する言論行使は、決して民衆の支持を得るものではない。」(昭和46年3月11日)
(注)作家は戦前の治安法令で検閲はもとより拘束もうけている。日記の他のところで、野坂昭如、寺山修司、永井荷風らの自由気ままな倫理と作風とは、立場を倶にしないのである。

(自由の意味)
 「個人の自由は無限に要求していいものではない。自由の要求は、それが社会全体の正しき秩序と甚だしく矛盾しない限度に於いてのみ、正当な要求であって、その限度を越えたとき、自由もまた悪となる・・・・・・・・・。ところが一般に、自由への要求は個人に与えられた無限の権利であるかのように解釈されているらしい。しかし社会はすべて一定の均衡の上に成り立つものであって、正しい要求、正しい主張も、それが或る限度を越えると不正な要求になって行く。」(昭和46年5月5日)

(吉田松陰への低い評価
 「夕刻多摩川べりまで運動に行く。石坂君に会う。原稿を書く熱意なく、手当り次第本を読んで過す。吉田松陰という人について私は何もしらない。世間は幕末に於ける第一級の学者あるいは思想家のように言っている。しかし少なくとも彼が外国渡航を企てて獄につながれるまでの段階に於ては、年齢も二十三歳ぐらいであるから致し方ないとしても、その行動は愚劣としか言いようが無い。(中略)松下村塾を開いてから後の事は知らないが、密航時代の松陰は、学問はあったかも知れないが、人物は青二才であった。渡航計画そのものも若気の至りであった。あまりに高く松陰を評価することは間違いではないかと私は思う。」(昭和46年5月25日)
(注)松陰自筆の「夷船に乗り込むの記」を読んでの筆者による松陰の評価である。密航を企て失敗したときの醜態、計画の杜撰さ、暢気さ、独りよがりと力み返り、こうした行いが「現代の革命青年」に似てもいると記している。

(報道の自由と報道業者)
 「社説の半分を割いて(自由な言論の責任)と題して、同じ問題を更に高姿勢に弁明している。最高裁に対して遺憾の意を表したのは、(権力に屈服したこと)ではないとか、みずから反省し自戒することが、(言論の自由を守るために)最も必要であるとか、懸命に弁じ立てているが、内容はむしろ言論の自由を守ることよりも、朝日の面目を守ることに汲々としているのであって、内心の狼狽ぶりが見透かされて醜態である。(大略)新聞の在り方、報道についての態度等は、むしろ明治大正期の方が立派であったように思う。今日の新聞は報道者の特権を笠に着ながら、次第に商業主義的に堕落して来た。」(昭和46年5月29日)
(注)著者の日記には、新聞の身勝手に不快な目に何度か会っている記述がある。批判の対象としている「青法協事件」の記事は、昨年のいわゆる従軍慰安婦の報道事件と構造が似ている。

(選挙と投票への悲憤慷慨)
 「夕食の席で、明日からまた参議院選挙でうるさくなるという話が出た。私は当分のあいだ政治関係の選挙には一切投票に行かない決心をした。これまでにも疑問は多々あったが、ひとりでも良い人を国会に送ろうと考えて、かなりまじめに、必ず投票に行った。けれどもそれは無駄な努力であった。選挙の愚劣さはもはや極度に達した。選挙法そのものが党利党略によって計算されたものであり、選挙民の耳目を掩って投票させるような制度になっている。民主政治、代議政治は救いようもなく堕落している。
 のみならず国会そのものが今では国家最大の無駄であり、国費の濫用であり、合法的形式をととのえた泥棒どもの巣窟である。予算決算の審議は駆け引きに終始し、法案の審議は勢力争いによって左右され、公害問題も人口問題も物価問題も、決して本気になって解決を考えられていない。
 吾々には選挙の義務がある。しかし同時に選挙の権利もある。私は今こそこの権利を政府に返上する。返上することによってこの汚れ切った選挙制度との絶縁を宣言したい。日本国民には選挙をしない権利も当然あるべきだと私は思う。今日のこの腐敗政治、腐敗選挙に対しては、国民が選挙に応じないことによって、選挙を不成立に終らせるという、そういう抵抗の方法しか残っていないように思われる。これは、マハトマ・ガンジーの無抵抗不服従の思想に似ている。いまさらにように、あのころのガンジーの絶望の深さが思われる。」(昭和46年6月3日)
(注1)再び強い政治不信の言。佐藤内閣の最晩期の話題であり、この年の夏にニクソンショックが起り、翌1972年には田中内閣が成立する。
(注2)またも川端康成。「選擧事務長奮戰の記」(昭和43年)―これは選対責任者の立場で友人の今東光を参院全国区に当選させたときのもの。もう一つは上記日記と同年の「東京都知事選擧記」(昭和46年)―美濃部都政に対し「温かそうで冷たいやうで、親しげなやうでよそよそし」と感じ、「自分でもわからぬ、思いがけぬ、心のいきおいである」として、「・・・むらむらっときた。よしやってやろうかと思った。決して判官びいきではない。・・・」と決心して、敗戦承知で泰野候補をあえて応援したときの手記(いずれも「全集」第28巻)。川端は別のところでペン大会に出席したとき「私の政治的な立場は自由、あるひは曖昧、と言ふよりも、立場などないほど非政治的な人間」と自省し政治的な署名さえも避けていた作家である(「臺灣・韓國」昭和45年)。随筆集の中にも、政治的な発言は全くといっていいほど少ない。しかし石川達三のように絶えず政治を論ずる作家と、ほとんど論じないが感という時に思い切り行動する作家、両者のアンバランスの対照は不思議である。

(沖縄返還所感)
 「梅雨の中の珍しい晴天。日米両国間で沖縄返還調印の日。この返還契約の条件についても、いろいろな紛糾はあるらしい。しかしともかくも満26年ぶりで沖縄の施政権が日本にもどったということは、祝すべきだ。それにつけても私はいまさらながら、沖縄人の永い永い不幸の日を思う。(中略)沖縄は敗戦の苦悩をひとりで背負ったような島だった。せめて今後の平和と繁栄とを祈りたい。しかるに某大臣は(沖縄を過保護にしてはならぬ)と放言して、野党から攻撃されている。この無神経な政治家に対しては私もまた、辞職を要求する。彼は政治技術は心得ているかも知れない。しかしいささかも、民の心がわかってはいないように思う。・・・そういう政治家が殖えて来たのかも知れない。」(昭和46年6月16日)この日で日記終り。
(注)普天間問題をめぐる昨年来の政府と沖縄県との対立の、元々の事の起りの話しである。

(2015.11.14 記)