西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1088号 「流れゆく日々」―作家と私の時の流れ(1)

2015年12月20日(日)

 石川達三(1905―1985年)は第一回の芥川賞作家であり、子供の頃に「48歳の抵抗」という印象的な小説の題名を憶えているように、次々と時代の注目を集めるような問題作を発表していった作家である。
 「流れゆく日々」は、1970年前半のわが日本の高度成長期、さまざまな社会問題が累積して行く中で、世相や政治の批判を中心に、同時代の作家のこと身辺雑事などについて書かれた五か年あまりの日記である。作家が文学的な感興を読者に与えようとするようなタイプの作品では全くない。著者の記述ぶりは直截、激烈である。日記は昭和45年10月1日に始まり昭和51年6月16日付で一応の終りになっている。
 毎月の掲載は昭和45年から昭和51年まで文芸誌の「新潮」に発表された。小生が二十五、六才の頃、下宿近くの文学好きらしい若い店主の喫茶店の灯下で、月ごとに雑誌に載るこの日記を読んだ記憶がある。
 先日、NHKラジオのアーカイブスで数回にわたり、石川達三が作家の自作朗読もふくめて大村彦次郎氏によって紹介されていた。その時に、この日記の全体にわたって感じられる石川達三の切迫した物言いや慨歎ぶり、老いゆく作家の心境の記述から、自分が受けた若い時の印象をなつかしく想い出し、今だったらどう感じるか再読してみようとしたのである。なお、単行本となっている「流れゆく日々」(新潮社版)の方は、昭和46年出版のものが第一巻、昭和52年出版の終巻が第7巻である。例のごとく、先ずは最後から最初の巻へと逆順で一読することとしたのである。
 念頭におくべきは、丁度その時代が現時点から半世紀近くを経ていることである。著者の主張にはかなり個性的な片寄りもあり、俗論に流れがちな主張も見られる。極論に及ぶところ少なからずである。しかし時代がひと巡りして、著者がその頃に関心を向け論じ立てたテーマが、逆に現代的な意味で現実味を生じさせていることも亦、面白く不思議なことである。
 以下の引用は、比較的主張がまとまってはっきりした部分について行っている。表題は端的な理解のため、小生が都合で付した。

 まずは作家の晩年(71歳の頃)の第7巻(最終巻)、つまり吾々にとってもっとも現代に近い年代のところから、月日順に引用をはじめる。

 「学力の足りない学生は何百人でも落第させるべきであろう。」(昭和50年8月29日)
 「聞くところによると来春の就職率は、大学卒の女子学生が最低であるという。某大手出版社などは今年の春も、大学卒の女性を一人も採らなかった。採用する側から見ると、一番能率が悪くて気位が高くて、給料ばかり高くて、(使いものにならない)ということらしい。」(昭和50年9月10日)

(東京の人口集中と日照権の問題)
 「大体は、東京あたり、既にあふれる程の人口をかかえていて、更に増加する人口を収容しようとするのだから、建物が高くなるのは当り前だし、その北側が日蔭になるのも当り前だ。つまり根本的に無理な条件の中に住もうというのである。」(昭和50年9月18日)
(注)列島改造ブームが終った直後の都市問題が論じられている。大都市周辺では人口急増への教育問題(学校増設、プール、体育館など)が自治体の関心事であった。

(福祉充実の時代に対する不満)
 「生活に窮した人を福祉政策で安定させて行くのは善政であるに違いないが、昔の日本人はたとい貧乏しても政府や市や区から何かの恩恵を受けるのを、恥と心得ていた。今は只で貰えるものなら何でも貰おうという了見が多くなったらしい。庶民の堕落である。」(昭和50年9月19日)
(注)戦後、徐々に世相は変化してきたのであるが、とくに変化したのはむしろ最近二十年ではないかと思う。戦前の大人が世の中から引退していったからかもしれぬ。

(東京湾の埋立て)
 「しかし、一体国にしても東京都にしても、海というものを何だと思っているのだろうか。自然環境が悪いとか自然保護が必要だとか、題目だけはしきりに聞かされるが、東京湾というのは自然そのものであり、これは代るものはどこにも無いのだ。(中略)既に至るところに埋立地ができ、その間々にたまった水は全く流れる力のない汚川と化し、悪臭を発し、東京都自身がその始末に困っているではないか。」(昭和50年9月24日)
(注)「夢の島」などという言葉があった。現在は埋立地上にはビックサイト、高層ビルの林立であるから、いまならば筆者は砂上の楼閣、大地震の危機などを強調するであろうに。

(サラリーマン時代の到来と社会不安)
 「サラリーマンが社会の中心的な存在となり、生涯の良い時期の大部分を他人の仕事の下請をやっているような事情が変らない限り、文化社会の不安定はなかなか修正も訂正もできないだろうと思う。」(昭和50年9月25日)
(注)サラリーマンの仕事は自分一個の仕事でないから、畑も店なども何も残らない、60歳を過ぎたら自分の仕事をつづけられず不安定である、これが妻の心配、家庭の不安定、そして社会不安につながっている、と筆者は自由業の立場から述べたのである。
 この問題は現在では一般化して社会に繰り込まれてしまい、もうほとんど意識されることもない。当っている部分はあるから世の中が依存化していることになる。今の年金問題、非正規雇用、女性就業との関係から考えれば、当時不安の意味と様相は内容が違うことになる。

(文化というものの弱さと強さ
 「雑誌を見ていたら菊池寛の言葉を見つけた。文芸春秋誌創刊ののち数年たらずして関東震災に逢い、仕事はすべて烏有に帰した。氏は文化というもののはかなさをしきりに歎いている。文化というものは自衛力をもたないし攻撃力ももたない。そういう意味では全くの無力である。(中略)その無力なものの美しさを吾々はこころして護って行けばいいのではないだろうか。」(昭和50年10月12日)
(注)筆者は、引用部分と前後のところで、菊池寛の感受性の強さを論評して、文化は残ったものを大事にすればいいのだという趣旨の文化論に及んでいるのである。菊池寛は作家、社会人、出版人として成功もし、苦労もした人物であり、外からだけ眺めた作家論は不十分であろう。最近並行して川端康成(1899―1972年)の随筆を読んだが、川端康成にとっては「菊池さんがゐなければどうなってゐただろうか」と云うほどの恩人であったようだ。
 大正12年の大震災の際は、「菊池さんはピストルや木刀をそなへて、ものものしい構へであった。菊池さんは大震災とか敗戰とかの異常に、挫折感の眞率に激しい人であった」と追想しており、そういうタイプの人であったのだろう。(昭和43年の随筆「『文藝春秋』のゆかりの人たち」から 川端康成全集第28巻、新潮社 平成11年)

(戦後三十年頃の戦後処理問題)
 「しかし私は思う。戦後三十年たっているのに、まだ勝った負けたとか言っていなくてはならないのか、今になってそれを言うことが何の役に立つのか。真珠湾の生き残りの米兵の三人が憤りをこめて群衆の中に混っていたというが、それならば米軍が原爆を落した事にも言及しなくてはなるまい。戦争は一方だけが悪かったわけではない。太平洋戦争直前に、米国が蒋介石をどんなに援助したか、その為に日本軍がどんなに困ったか、仏印のゴムを封鎖し、蘭印の石油を封鎖したのは米国である。ハワイ奇襲は日本がやりたくてやった仕事ではない。すべて条件をこしらえたのは米国である。
 だから私は、いまさら(あの時は・・・)という言い方はやめた方がいいだろうと思う。フォード氏は戦争には何も触れなかった。天皇のあいさつでも、戦争に触れる必要はなかったと私は思う。謝罪に行ったのではない。最初から親善訪問が目的であったのだ。」(昭和50年10月14日)
(注)時代はさらに一世代を経て、戦後70年の戦後処理がアジア大陸との間で生じている。著者の戦前の国際政治への見方は、戦後的な風潮とは軌を一にしていない。東洋史家の宮崎市定の見解に似ている。

(防衛調達と企業)
 「自衛隊が飛行機を買うのに、直接アメリカから買うのではなしに、必ず日本の商社が買って自衛隊に納めるらしい。(中略)何の為に商社をもうけさせるのか。」(昭和50年10月16日)

(いわゆる言葉使い)
 「その言葉がなぜ今になって急に悪質だと考えられるようになったのか。実は言葉が悪質であるのではなくて、言葉を使う人たちの一部が神経衰弱になっているのではないかと私は思う。」(昭和50年10月26日)
(注)すべて物に対する評価は、役に立つもの、弱いもの、わるいもの等性質はちがっても、そのものの影響が社会的に大きければそれだけ変化も大きくなりがちである。言葉を変えても評価の実質はそれほど変らないことが多く、本音と立前になる。

(面白くないフィクションと司馬遼太郎)
 「司馬遼太郎の『余話として』という随筆集を読んだ。これは大変に面白い。彼の創作には資料がたくさん有るらしいが、作品にはフィクションも入っているのであろうと思う。ところが創作余話としての会津藩のはなしや近藤勇のはなしには、フィクションは無いはずだ。それが意外に面白い。」(昭和50年11月8日)
(注1)フィクションがないわけはない。それはともかく、坂本竜馬の勝手妻である千葉周作の娘が、墓にまで坂本竜馬室・・・・・と刻んである話しは、「人間臭くて、なまじっかなフィクションの十倍も面白かった」と記す。
(注2)この種の歴史作家に対する感想はどう理解したらよいのか。―追記(S46.5.25付の日記にある吉田松陰への低い評価との関係)

(政治と陰諜)
 米国の秘密警察CIAの関係者が過去に於ける様々な陰謀の一端を曝露した。それによると黒人牧師キングに自殺を強要し、(中略)ケネディの暗殺もそれらしく思えるし(中略)このような事実を知らされると、政治というものの暗黒面がいまさらのように考えられる。」(昭和50年11月22日)

(江戸期の政策と毅然さ)
 「三田村鳶魚全集を拾い読みしていると、いろいろ珍しい記述にぶつかる。文化文政のころ、長崎貿易でオランダ人たちが長崎へ来ていたが、それは男だけであって、(長崎に女異人は一人もいなかった)という。(中略)宗教上の理由が主であったろうが、それとも日本人の純血を守ろうとしたのか。いずれにしても混血児を一人も日本国内に生かして置くまいとは政策は強烈である。」(昭和50年11月27日)

(修学旅行不要論)
 「中学生高校生の修学旅行というものを全部廃止してはどうかと思う。(中略)ただ騒然と歩きまわるばかりで、一般人の受ける迷惑は多大なものである。(中略)日本中の名所古跡を見てまわる機会はいくらでもあって、修学旅行の意味はほとんどなくなってしまった。」(昭和50年11月30日)
(注)日本中で東京一極集中に異を唱えながら、いまだに地方の子供たちを東京や関西に修学旅行をさせているのは一体どうしたことか、という主張が今ならの石川達三的論調であろう。

(女性解放と結婚問題の見方)
 「どういく訳か三十から三十三、四ぐらいの、良い息子たちに独身者が多い。言いあわせたように、どれを見ても碌な娘が居ないと言う。あれではとてもまじめな家庭を維持して行けるとは思えない、という。つまり女性に対する強烈な不信任案である。(中略)実存主義、女性解放、性の自由、男女平等以来、若い女たちは野放図に自分たちを崩してしまったらしい。国際婦人年も結構だしピルの解放も結構だが、結婚の相手たるべき男たちから強烈な不信感を表明されているのに、その事に対して何の反省も持っていない。」(昭和50年12月16日)
(注)筆者の見た方向とは反対に、もう既にこの頃から、女性の方が男性に対し見切りをつけ始めていたのが実際なのかもしれないのである。

(その頃始まった老人福祉への政策批判)
 「満七十以上の老人医療無料という制度は、これまでで満2年になるらしい。七十以上の老人はどこか悪いにきまっている。それがただ・・というので、(中略)多くの人が毎朝病院へ(遊びに)行くようになった。(中略)経費はかかるし、治療は粗雑になる。当りまえのことだ。それをやったのは、政治家たちの選挙民に対する機嫌とりだった。そして政府はいまを上げている。やはり無料はやめようと考え始めた。しかし近いうちに総選挙があるので、制度を改めると自民党が不利になるだろうと言う。」(昭和50年12月21日)
(注)医療と介護の連携、病院から在宅へ等という目下の政策議論の起源である。

(教育過重と文教改革)
 「散歩の途中で、学校かえりの小学生をよく見かける。心配も悩みも無さそうで、しきりに羨ましい気がする。ところがその女の子たちがどうかすると両手に持ちきれないほどの荷物を、曳きずるようにして帰っていくのを見かける。私たちは小学生の頃、あんな荷物を持ち歩いたことは無かった。(中略)第一、小中学校での教育科目が多すぎるのだ。」(昭和51年1月19日)
(注)子供のいじめや不登校などの問題は、当時まだ十分に意識されていないことがわかる。子供の持ち物が多いということは道具主義になっているからである。
 「文教改革の根本は、まず学習塾を必要としない義務教育をつくることだろうと思う。文部大臣は学校いじり、教員いじりをしているようだが、そんなことでは問題は少しも解決しない。」(昭和51年4月13日)
(注)よいことを言っている。

(全く逆の人口観)
 「インドで人口制限の為の強制的な法律が意識されていると新聞が伝えている。断種、不妊手術を含むもので、違反者には体刑までも考えられているという。これに対する反対意見は聞くまでもない。(中略)要するに反対意見は、個人の正当な自由や権利は国法で制限されるべきでないという事である。(中略)しかし個人優先がどこまで可能であるか。インドのように人工増殖のはげしい国では、個人の権利を優先させて行けば、個人の利益は忽ち行き詰まってしまう。(中略)実はインドだけではない。中国でも日本でも同一の問題をかかえているが、日本政府は怠惰にして百年の大計を立てるだけの勇気がないのだ。(中略)それをやらなければインドは崩壊する。日本も三十年先には、必ず崩壊する。日本の政治家のうち誰か真剣にこの問題ととり組んでいるであろうか。私はインドの政治家の勇気を多とし、その立法の結果に注目したいと思う。(中略)問題は主義だの論理だのを討議することではない。民族がどうやって生き残るかという、最終的な生存条件を、実行するかしないか、である。」(昭和51年5月1日 雨、晴。メーデー。)
(注1)ここで言っている人口増加問題と背景事情とは、当時と今日とでは天と地ほど関心方向が違う。今は人口減少・・問題が国家の存亡にかかわると言われるのである。
(注2)次のような、川端康成の回想からもわかるように、当時の知識のある人たちも、真剣に人口増加からくる危機・・・・・・・・・・を感じていたのである。したがって現在の人口減少問題は、今日に至るまでの時間の累積があるのであって、解決が一朝一夕で困難であることを物語るものであり、と同時にまた考え方ややり方次第で解決ができうる問題であるということが言えるのである。むしろ解決するというような見方をすべき性質の難問ではないのかもしれぬのである。
 「菊池さんが舊社の『文藝春秋』に書いた最後は、昭和21年1月號の『其心記』で、『自分は、戰後の日本を救ふ道は、產兒制限より外ないと思ってゐる。』と書き出され、『戰争後の新しい時代に於ても、新しい潮流に乘ぜんとする私利的な便乘者の群れに依って、多くの混亂が生じないことを、自分は心から望んでいる。』と終っている」(前記「『文藝春秋』のゆかりの人たち」から)。

(70年代の改憲論と防衛意識)
 「憲法記念日。朝から雨。雨の多い春だ。自民党の内部では憲法改正論などが出て、ごたごたしているらしい。(中略)政治家連中は党派の利害に目がくらんで居るから、都合が悪くなったときには憲法でも何でも変えようとする。憲法改正は国会にまかせる訳には行かない。もっと純真な立場の人たちによって研究される方がよい。しかし第九条の如きは、制定当時から問題があった。違憲の自衛隊が立派な軍隊として存在している。この矛盾はいま急にどうすることもできない。これが解決できない限り、改憲論は実現しないだろうと思う。」(昭和51年5月3日)
(注)この問題も時代が一巡してきた。筆者はこの問題においても現実主義である。実定法の累積の中で憲法の値うちとは一体どういうものなのであろうか。

(自然再生エネルギーの「先覚者」)
 「私はときどき偉大なる・・・・発想をする。今日はそれが、(太陽光線を蓄積する方法はないだろうか)という事であった。原子力発電などで人間は、大変な手数をかけて危険を冒して、ようやく夜を明るくする方法を用いている。しかし太陽光線は無限であり、これを蓄積する簡易な方法があれば、人類の生活はどれほど豊かになるかわからない。蓄積はわずか三日分ぐらいあれば足りる。無くなった頃にまた晴れた日があれば、消費した分をとり戻すことができる。(中略)Aの地区からBの地区へ、太陽光線を電流のように、電線によって補給することは不可能だろうか。(中略)五十年か百年か先に、もしそれが地上で実現したとすれば、そのとき私は天才的な先覚者として語られるであろう。呵々。」(昭和51年5月13日)
(注)ややユーモアをもって述べているが、これもSF的には時代が一巡してきた。

(過度の権利主張の流行)
 「車椅子で街を行く人がある。その人たちの為に歩道と車道との段差をなくそうという言説が出る。それは悪いことではない。そして三ヶ月に一台の車椅子しか通らないような街でも、都営が市営かの工事で段差が取り去られている。(中略)或る個人から抗議されたとき、お役所は弁明できないのだ。(中略)その或る個人は居丈高になって役所を攻撃し、自分は英雄気取りになる。・・・いま、そういう人間が大変ふえて来た。(中略)こういう正義漢を、私は大変嫌いである。つまり私はこのような流行が嫌いなのだ。」(昭和51年5月16日)
(注)パスカルは「パンセ」の中で「流行が魅力を作り出す。正義を作り出すのも同じく流行だ」と書いている(「パンセ」断章61)岩波文庫2015年初版。

(国家防衛と自立心)
 「岡山県の山奥の自衛隊駐屯地で、駐屯部隊と住民とが喧嘩をし、双方に怪我人が出ている。昔は軍隊と庶民が喧嘩をするという事は、考えられなかった。事件の原因は部隊の演習がやかましいというような事であるらしいが、(中略)それを今では、あの憲法違反の無駄めし・・食い・・・と思っている。同時にソ連をもアメリカをも中国をも、敵だとは思っていない。実は、日本人がそれほど平和的になった訳ではない。アメリカに支えられて、本当の独立心を失い、核の傘を当てにして、怠け放題になまけている為に、危機感も自衛心も失っている為である。(昭和51年5月18日)

(なんでも知りたがる風潮)
 「『知る権利』という言葉は出典がどこかに有るのであろうが、それを日本で流行させたのは新聞ではないかと思う。厳正に考えれば、意味ふかい言葉であろうが、それが通俗に濫用されると嫌な言葉になる。新聞社に取っては都合のいい言葉であるが、一般にはあまり広めない方がいいように思う。『知る権利』という権利は、どこまで主張することができるのか。その範囲を考えて置く必要がある。一般的に考えて、自分と直接利害関係のないものに対して、知る権利はないだろうと思う。政治については、庶民は大きな利害関係がある。経済政策、外交政策も当然のことである。(中略)知る権利という言葉に対しては、秘匿権という言葉もある。私権という言葉もある。(中略)知らなくてもよい事を、殊さらに知ろうとせずに、黙って見過ごして行くというのは、ゆかしい事だ。」(昭和51年5月21日)
(注)知る権利は自治体では昭和50年代の半ば頃から行政の関心となり、条例化が進むようになった。この問題にかかわるさまざまな「懸念」は当時の「流行」の中でほとんど意識されなかった。

(ロッキード事件と民主主義批判)
 「新聞は毎日ロッキード問題を報道している。しかしこれが先へ行ってどうなるのか、甚だ心細い。いま調査中の資料がそろえば、容疑者たちが告発され、起訴される。それまでに何か月かかるか解らないが、事件はようやく具体的になる。そこで、この裁判が何年かかるだろうか。(中略)政治の場に於いて、民衆の発言力が強くなれば、政府は自らを弁護する為に大変に余計な手数をかけなくては、事が済まない。多くの役人と多くの文書とを用いて、民衆の御諒解を得なければならない。その為には膨大な時間と経費とがかかる。そして形式主義がひろく行なわれる。民衆に阿諛するような政治が行なわれる。そして衆愚政治に近づく。これは容易なことでは救い得ない。」(昭和51年5月25日)

(自由の無知と秩序統制)
 「自由の恐ろしさを知らない人たちが、自由を自分の武器と考え、それによって自分を強化し、有利な立場を得ようと争い騒いでいる。(中略)いま、民衆は津波のように自由を叫んでおり、政府権力者は秩序維持に確信を失いつつあるように見えるが、遠からず一部の民衆は(自由の公言)に辟易して秩序を要求し、厳しい当局の取締りを切望するようになるだろう。それが庶民の側の(自己防衛)となるに違いない。(中略)かくて、十五年か二十年の後には自由主義こそ庶民の敵となり、国家秩序こそ庶民を護ってくれる最大の味方ということになりはしないだろうか。恐らくいま、自由主義を謳歌している文明諸国は、その自由の為に社会は崩壊し、いま最も厳しい統制を布いている共産諸国が、その統制の故に社会の崩壊をまぬがれる、ということになるかも知れない。これは私の夢であるが、何とも恐ろしい悪夢である。この悪夢から、自由主義文明諸国を救う道が、有るだろうか・・・。」(昭和51年6月16日)

(2015.11.8 記)