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イッセイエッセイ

1085号 めっちゃ医者 笠原白翁

2015年12月15日(火)

 嘉永かえい二年十一月十九日(西暦なら一八五〇年一月二日)に京都を発ち、十一月二十四日に今庄にたどり着いている。二百余キロ足かけ六日間の雪中の行程であった。子供に植えつけた天然痘の痘苗をたやさないように三組の親子と良策の七人が運び、種痘を拡げる大仕事であった。
 文章の主語もストーリーも省略して書き始めてしまったが、主人公はめっちゃ医師こと、笠原白翁(1809・文化6年~1880・明治13年)であり、クライマックスとなる峠越えのシーンである。
 「良策は、この瞬間をのがすまいとして、なだめすかした後に幼児を引き寄せると、京都の幼児二人からとった膿をすばやく福井の幼児二人に接種した。かれは、安堵の息をついた。(中略)良策の予定では、栃の木峠を越えて虎杖いたどりまで八里余の道を一日で踏破したかった。女、幼児をともなう一行にとって、その道はかなりの長い距離で、その上、山路は深い積雪におおわれている。
(中略)良策の決意は変らなかった。もしも土地の者の言葉にしたがってこの木ノ本でいたずらに日を費やしてしまえば、せっかく接種した二人の幼児の痘も消えて種つぎができなくなる。危険は十分予想されたが、死力をつくして栃の木峠を越えてしまわねばならなかった。
(中略)傾斜はさらに急になり、二メートル以上にも及ぶ雪の中に一行はうずまった。その上、猛吹雪となって、視界はまったく閉ざされた。顔に雪がたたきつけてきて、眼もあけられない。その中を七人の男女は、子供を背負い、胸まで没する雪の中を泳ぐようにして進んだ。
(中略)かれは、崩れるように坐り込んでいる一行を起こすと、再び雪の中を進ませた。ようやく栃の木峠にたどりついた。道はそこから深い谷間に入っている。両側は、仰ぎみるような断崖で雪塊が時折、落下してくる。(中略)良策は身の安全を祈りながら一行をせかせて進み、幸いにもその難所を通り過ぎることができた。
(中略)峠を越えれば、福井藩の領内である。遂に良策は、種痘をおこなった幼児を福井領内にもちこむことができたのだ。しかし、かれの最も恐れていたときがやってきた。あたりが急に夕闇につつまれ、道は闇の中に完全に没した。良策は道と思われる雪の中を押し分けるように進んだ(中略)激しい疲労で、眼がかすんできた。手足の感覚も失われ、眠気がおそってくる。死んではならぬ。種痘をした幼児をなんとしてでも福井に連れ帰るのだ、とかれは胸の中で叫びつづけた。一行に、死の危険が迫った。(中略)そうしたかれらに、奇蹟的ともいえる好運が訪れた。息も絶えだえになった良策は、道の下方に明るい光が浮かび出るのを眼にした。(中略)それは二つの松明たいまつの火であった。河内から先発した男の依頼を受けた寺田という虎杖村のおさが、一行の身を案じ二人の男に命じて迎えにこさせたのだ。良策たちは、死を脱したよろこびで雪の中にひざまずきながら互いの体を抱き合った。(中略)翌十一月二十四日は、晴天であった。良策の眼には、澄んだ空の色がこの上なく美しいものに映った。」
 以上は、吉村昭著「雪の花」(昭和62年)から、福井の町医笠原良策が、天然痘根絶のため、厳冬の北国街道・栃の木峠を子供たちと突破する場面(新潮文庫・昭和63年では十頁余に及ぶ描写)のところである。この小説を一度読んでもらいたい為に、失礼ながら要約的に抜粋したものである。「ふるさと」と「そこに生きた先人たち」を知ることは、これからの教育においてますます重要になるはずだが、教材が説明に終ることなく生々していることが望ましく、そのためには文学の果す役割は大きいものがある。

(2015.12.7 追記)