西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1084号 韃靼冒険少年

2015年12月14日(月)

 寛永二十一年(正保元年)1644年、つまり三代将軍徳川家光の晩年、三国港を船出して松前に赴こうとして漂流した越前国三国浦新保村の商人・漁民(56名)がいまの図們江近く中国東北地方の、江戸期のいわゆる韃靼国に漂着し、そのうち43人は現地で陥穽にあい殺害され、残る国田兵右衛門、宇野与三郎ら15名は辛うじて俘虜となり、建国直後の清国の出先の手で遭難地から奉天(瀋陽)に送られ、更に北京に転送され在留一年の後、清・世祖の勅諭をもって母国への送還が決められ、朝鮮、対馬を経てあしかけ三年後に生還できた顛末を、幕府当局が上記両名の陳述をもとに記録したものが、この「韃靼漂流記」である。
 この平凡社版の東洋文庫「韃靼漂流記」(1991年)は、かつて園田一亀そのだかずきという方が詳細に研究した「韃靼漂流記」(南満州鉄道株式会社鉄道総局庶務課発行、1939・昭和14年刊)を復刻した書物である、と本書の巻末の解題(寺田隆信)に記されている。
 著者の園田氏の記すところによれば、「韃靼漂流記」の漂流民は水夫などの庶民であり見聞談には物足りない所も少なくないが、その中の記述は多方面に亘っており、「三百年後の今日に於ても、尚ほ淳樸善良な越前商民の面目が紙上に躍如として居る。其の記述の体裁は簡潔率直、実際の体験談だけに傾聴に値するものあり、その史的価値も少小ではない。加之に本文は極めて平易なる候文体であり、地名・人名を除けば難解の点は非常に少ない。何人が之を卒読するも容易に理解することができる。之を単なる読物として見るも、三百年前日本人の満州旅行談として面白く読むことが出来よう」(69頁)と評価している。
 時の偶然にも幸いしたのであるが、漂流民が北京に移送せられた日月は、折りしも清朝が明国を破り奉天から北京へ新たに遷都せる年月に当っており、すなわち「彼等こそ北京に於ける大清帝国の店開を実際に目撃見聞せる日本人であった。従って是書は日本人の手になれる清朝入関時の参考史料として唯一無二の文献である」(68頁)とも評しているのである。なお関連して、彼らが無事故国に生還できたのも、国際的にこうした恵まれた瞬間に遭遇したためかとも思われる。
 さて彼ら帰還後の幕府方の取調べは、家光の御側役を勤めた五千石の旗本で中根壱岐守という人物であったらしい。このことは新井白石(1657―1725年)が残した手簡の中に、壱岐守の次男である中根宗右衛門から直接聞いた話として記録されている。
 生還者15名のうち大人14名の姓名はわかっているが、帰国した後の14名の消息は杳として伝わらず不明である。しかし一人だけは「竹内藤蔵召使、りやうし」とあって、その姓名を逸しているのであるが、こちらの人物は他の大人とは異なり逆に若干の行状が残っていて、当時十四、五歳の少年であったという。漂流記の表現で「韃靼語」と「支那語」というものを、よく覚え巧みに使い分け、同行の大人の中にあって通詞などをして役立ったと漂流記に書かれている。
 さらに先の新井白石の手簡に幸いにこのあたりのことが書かれていて、それによれば某少年はその後、越前家の家老・本多淡路守(丸岡4万3300石)に召しかかえられ、侍にまで抜擢されたらしいのである。今から400年近く前に、福井の無名少年が露中の国境地域からさらに北京、朝鮮半島、対馬へと巡っての一大旅行を果すという貴重な冒険を経験し、しかも短期間に二つの外国語を身に付けて一行の帰還に役立てたというのであるから、ジョン万次郎に先行すること200年前に、グローバルな活躍をした「ふるさと」の先覚少年といわなければならないだろう。
 本書を読む機会をもったのは、寺島実郎さんが先日来福された際に、本書のことを話題にされ紹介をうけたためである。今日はまた、三国出身の荒川洋治さんが「高見順没50周年」を記念しての講演会に来県し、講演会の後半を私も拝聴すると同時に、終られてから三国の町づくりの人達と喫茶店で暫く談話をし、その際荒川さんからもこの「韃靼漂流記」の少年のことが話題にのぼり、彼ら漂流民はもっと世間に知ってもらってよい福井の先人であるという結論になったのである。

(2015.12.6 記)

 この なお以下は、「韃靼漂流記」の結末の部分にあるこの少年についての記述である。

 「通使つうじ申者を、両国ともとくそうと申候、日本人十五人の内に、其時分年十四五歳に相成候一人居申候、此者最前被殺ころされ候竹内藤蔵草履取にて御座候。大明の人と詞をかはし候、通使仕候事自由自在にて候ゆへ、此者を御奉行衆其外の人々、あぢきとくそうとよばれ申候、あちきとはわらんべの事にて候。とくそうとは、通詞の事にて候。日本の者共、御奉行所へ参候時、番所を通候に、番衆改候時も、人々とがめられ候得ば、此ざうり取を先に立、番衆と通詞をさせ候得ば、即時に埒明らちあき申候。番衆とがめ候時、日本の者共にて、大王様の御許おゆるしにし何方をも通り候と申候。或は奉行所へ参候時は、御じょうにて参候と申候事を、彼国の詞にて右の通使断申候へば大王様の御免と申を聞て、いかにも慇懃に仕通し申候、彼者若年には候へども、如此詞を自由自在におぼえる事、天道の御助かと存候程に御座候。
 此若輩者じゃくはいもの、日本の詞にて、ものを申候事、一切不調法ぶてうはうに候て、物覚申事も、成不申候処に、韃靼大明の人々と、詞をかわし、埒明らちあき申事、十五人の者共、一身仕候ても、罷成候事にては無御座候。十四人の者共申候は、此草り取は、前生韃靼大明の衆生にても候へ共、今生にては日本に生来るかと疑ひ申候て互に笑申候、此者を江戸へ召連参候て、万くわしき事御尋の義共を可申上ものをと存候、越前へ罷帰まかりかへり、追々よろづの詞聞届候て、書付可申上候、但し此者を、召出され、日本の詞にて御尋被成候はゞ、扨もㇸたわけ者と可被思召候、然共両国の人々と出会であひ、物を申候事は、花をちらし申候、不思議に被存候。」(終巻)

(注)通事 Tungse ドクソウ、童子
Ajige アシキ

 この無名少年は韃靼語や支那語を最も早くよく覚え、自由自在に巧みに使い分けたと言いながら、日本語を話させれば不調法でたわけ者だという事は、相矛盾しており、幕府に対する懸引きから、表面は愚物と称したものらしく、たわけ者どころか事実は仲々の才物であったのであろうと、荒井白石の手簡を引用しながら、著者の園田一亀氏は結論づけている。
 新井白石の手簡は以下のとおりであるが、白石がもう半世紀前にこの世にあれば、もっと詳しい漂流記聞取りがなされて東洋紀聞として残ったのではないかと惜しまれる。

 「扨其書付に幼少の者才有てよく通じ候が、世事にはうつけに候と書付られ候由の事を、これは老拙外舅越前の者にてよく存知申聞かせ候ひき。中々うつけにては無之、勝れ候才敏の者に候を定て伊予守殿思召候と見えうつけと御書付、江戸へもそれをば御下しなく候を越前の家老流本多やらんの家へ早々呼出し、後には二百石給り、家の事を執らせられ候とぞ申候ひき。名を承り候ひしに忘候てわけもなき事に候。定て越前衆は存ぜられ可有之候間重ねて承出し候ば追って申上候。」

(2015.12.10 追記)