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イッセイエッセイ

1082号 文学と政治(川端康成)

2015年12月06日(日)

 川端康成(1899-1972年)の小説は、以前の若い人であればどれか一作くらいは読んでいるであろう。
 「伊豆の踊子」(大正十五年)は高校の教科書にもあり、映画にも何度もなっているから、自分もその頃小説は読んだような気がする。しかし、あまり意味のわからない小説のように思ったと憶うが、それまでにはない小説のテーマの選び方と書き方であったから、描写の雰囲気というものがあって、作品として文学史に残っていてよいものであろう。
 小説の「雪国」(昭和十年~)も出だしが有名だから、これも読んだのではないかと憶うが、どんな話しであったか人物名は浮んでも、筋の形ははっきり憶えていない。当時は、鷗外、漱石、藤村、芥川、そして志賀直哉などとならんで川端康成はもう大家であり一目おかれていた作家である。勿論ノーベル文学賞をのちに得ている(昭和43・1968年)。「山の音」(昭和二十四年~)という小説も後になって読んだ記憶があるが、まだ学生の時代であるので、男女の仲や夫婦の機微はわかるわけがなく、世の中のことは曖昧なままに未解決のまま動いていくものであるという程度に感じた。
 何年か前、ある小説家の随筆を読んで知ったことであるが、川端康成が日本ペンクラブの会長をされていたとき、文学館の建設であったか何か大きな事業の費用を企業から工面する必要が生じ、資金集めに奔走されたらしい。川端会長が財界のトップと面会しても金の話をさっぱりせずに雑談ばかりで終るものだから、同行の作家たちが心配してたずねると、なにもうその話は先につけてあるから心配しなくていいんだと断言して、結果も上首尾だったというエピソードを伝えている。このように作家としての評価のほかに、時代も良かったことなのかもしれないが、組織の経営能力とか実務にも通じていたという意外な一面をもっていたということである。
 近くの図書館には、いつもどれかの作家の全集が並んでいて、何年かごとに背表紙の作家名は移り変る。井伏鱒二、遠藤周作、志賀直哉、小林秀雄、鷗外(時代小説のみ)、龍之介などが並んでいた。小説の類はいまさらは読む積りはなく、いつも終巻に近い随筆類を借りて読むことが多い。上記の作家達のものも興味のあるところを飛ばし読みをしながら(川端康成も石川達三もこういう読み方を「拾い読み」という上品な表現をしている)、これらの作家たちの様々な考え方を学ばせてもらった。ここ数年は、川端康成の全集が並んだまま(そのように見える)なのであった。特に好みに合った作家でもないので陳列を眺めるままであったが、今日は気が変って後半の諸巻をみてみると、その中に三巻にわたって随筆がふくまれていることを発見し、そのうちの最終第28巻を読んでみることにした。

(2015.11.21 記)

 この全集の中には吾々の今の時代に役立つような意味をもった随筆はほとんど含まれていない。文学や芸術にわたる話(ノーベル賞受章講演「美しい日本の私」もこの巻にある)が多く、囲碁の名人戦の話しや交遊録、また外国旅行記も何篇か入っている。人気作家であったから鰐淵睛子(まだ少女)、岸惠子、有馬稲子、加賀まり子、岩下志麻などの当時有名だった女優についての話も入っている。
 川端康成には政治のテーマのものはほとんどない。しかし、「選擧事務長奮戰の記」と「東京都知事選擧記」の二篇については、この作家にとっては異色の政治随筆であり、読んで面白く政治のことに役立つものである。
 敗戦後10年を経過した川端康成が、五十歳半ばの頃、この作家は日本語が将来は「ロオマ字」になると思っていたふしがある。
 「いくつまで生きてゐられて、いくつまで小説が書けるか、生きてゐても小説は書けぬやうになるか。日本語がロオマ字になるころまで生きてゐられれば、國語の純化、整理、あるひは復原につとめる一人として、老後を役立てたいとも思う。今はまだ國語問題に觸れてゆくのはこはい。ほかのことがなにも出來なくなるだろう。」(「古い日記」昭和31年1月22日付)なおこの日、鏡里が鶴ヶ嶺と対戦し優勝し、女房よろこぶと日記にある。

 一方で六十歳後半の頃には、
 「私のずゐぶんあきれたのは、お茶の水附近を日本のカルチエ・ラタンにしろなどといふ學生たちの説です。日本人としてなんといふ誇りのなさでせうか。地方の町にむやみとなになに銀座ができたり・・・古臭いカルチエ・ラタンをパリに行って見てらっしゃい。フランスは斜陽の國、過去の國ですよ。日本語を愛して日本を愛しなさい。」(「選擧事務長奮戰の記」昭和43年)ということも書いており、日本語の大事派になっている。

 文学一般に関しては、
 「古典によって過去の日本語を通っておくことはよい。現代語譯だけで讀むのはだめである。その一方、外國文學も日本語譯だけで讀まぬのがいいだろう。また外國文學からは學んでも、日本文學から特に學ぼうとする必要はない。おのづから親しい流れが觸れて來るところがあればいいのだらうと思ふ。いづれにしても自國の文學である。」(「古典を讀む人々へ」昭和31年)

 また作家活動の苦しさについて、「ものを書くよりは讀むはうが、どれほど樂しいことか。」と書いている。(「讀書の姿勢」昭和33年)
 「詩を書かなかったこと、歌を讀まなかったことは、六十の年を過ぎた今、私のくやんでもくやみきれぬ、生涯の悔いである。歌はあきらめるより詮方ないとしても、せめて一巻の詩集でも遺したいといふ、ひそかな望みはいまだに消えない。今日の日本語はざつであり、小説はそのざつな言葉からたうていのがれられない苦しみといやさも、私が詩や歌で純で美しい日本語によって試みてみたいとの願ひの一つのもとだが、そればかりではない。(後略)」(「心のおもむくままに」昭和35年)

(2015.11.22 記)