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イッセイエッセイ

1078号 歴史と実証と評価

2015年11月11日(水)

 宮崎市定全集(岩波書店)の最後の第23巻(1993年)と第24巻(1994年)は、この東洋史家の随筆の類が収録されている。拾い読みをするとわかるのだが、多方面に亘って沢山と興味あることが書かれている。しかし、どの話しも随筆として読み流すのがよろしく、まとめた形の整理はしにくく又しない方がよいであろう。そこでやむなく歴史一般について書かれている代表的な二つの随筆を、以下にとりあげて私解を付す。

 「歴史学は実証的な学問だといわれる。ところが歴史をやれば何でも分かるかというとそうは行かぬ。寧ろ分る部分より分らぬ部分の方が多い。歴史学の実証性には大きな制約がある。」
 AかBかの事実を史料によって決定するに不足する時に、学者が自分の立場にこだわって希望的観測をしてしまい、判断をまちがうことを述べている。
 「何か新しい史料が出現すれば訳なく解決されることもあるであろうが、そうでなくても研究方法の進歩によって問題を一歩前進せしめて、より妥当な解決に近づくことは充分に期待されうる。それは吟味の立場である。」
 何か全く新しい立場(一種の科学的価値をもった仮定に立って行う新説のこと)を明らかにし、それを公開、共有して研究することは価値をもっているという。そのためには「立場の究明が同時に歴史学に包含」される必要があると述べる。そして一つの方法論として、歴史の対象についての質的な差異を、例えば人種の差も量的なものにすぎない、文化の差も地方色にすぎぬ、というように「量的なものに還元」することも、学問としてありうると述べる。
 「歴史学といわず、一体に科学なるものは殊更らに議論を難しくすることでなく、成るべく複雑なものを簡単化することが目的でなければならぬ。物理学や化学が物質を取扱って、段々これを量的な面に追いこんで行くように、歴史学も亦、異質的なものをなるべく簡単な量的な系列に還元するのが、今後の進むべき方向ではあるまいか。自然科学の難しい理論は、実は最も簡単に、直線的に目的に到達するに不可避な順路であるように、人文科学における理論も亦、一見複雑に見えても、実はそれが最短距離を覘ったものでなければならぬであろう。」
                                         (以上の引用は、23巻『歴史学の実証性』1947年から)
 そうなると、最近好ましいイメージの言葉ないし考え方の代表例として「多様性」という観念があるが、この言葉自体も亦、注意して使われなければ何が本当に多様なのか、単なる流行語を使っているに過ぎないのではないか、再考を要することになる。
 「われわれは従来の歴史書に伝統的に伝えられた、行間の空白を勇敢に検討しなければならない。そして在来の公理とは異なった公理の上に組み立てられた歴史を提供しなければならない。その取捨選択は時代と公論が決定してくれるであろう。歴史的評価に客観性を求めるといっても、それは何も多数決で黒白を決定することではない。また別に討論を闘わすまでもなく、色々な試案が提出されて行くうちに自ら公論が決定するであろうと期待するのみである。公論を信じなければ人文科学は成立しない。」
                                       (以上の引用は、23巻『歴史的評価の客観性』1948年から)

(2015.11.7 記)