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1077号 岡田啓介回顧録

2015年11月06日(金)

 この回顧録の中でとくに、岡田啓介(当時68歳)が昭和11年の二・二六事件で反乱軍の暗殺の手からからくも脱れた様子を、実録として実に生々と展開している。政府の中枢部においてさえ情報や警備の厳しさの点で当時も弱体さが見られる。一方、危機にのぞんで周囲の人たちが、男性か女性かをとわず気転と果断に富んでいた事などを教えられた。
 「二・二六事件というものは、陸軍の政治干与を押える最大のチャンスではなかったか、とわたしは思っている。・・・もはや軍の暴力的傾向がこんなにまでなったかという感じを与えたが、同時に国民の心に軍の横暴に対する反感がかなり強くわき上がった。それをつかめばよかったんだ。・・・その機を逃さずに、国民の常識を足場にして強い政治をやり、軍を押えつけてしまう。ごくいい潮どきだったと思うが、軍にさからうとまた血を見るという恐怖のほうが強くなって、ますます思いどおりのことをされるようになってしまった。」(日本のわかれ道205頁)
 実際は禍い転じて、というような歴史展開にはつながらず、結局は内閣の不始末として岡田首相は退任し、次の広田内閣に引きつがれる。
 あのような大事件の発生とこれに遭遇した政治家としての出処進退の仕方には、現代の我々が持つような常識とは相当の懸隔があったであろう。今の世の中にみられる何んでもありの世界ではもちろんなかったのである。
 「松尾(拙注 身代りに犠牲になった同郷、義弟の松尾伝蔵大佐のこと)の葬儀をすませてからというものは、角筈の私宅で、ひたすら謹慎の日を送っていた。いつも門を固くしめて、外出も謹んだ。世間には、わたしが殺されもせず生きていたということについて、いい感情をもっていない傾きもあって、とかくのうわさもあったけれど、弁解めいたことを言ったことはない。・・・毎日、することといって何もないものだから・・・庭に飛んでくる鳥の様子をじっと見ているのも楽しみだった。それで小鳥の習性がわかったものだよ。毎日、庭をながめているうちに、庭にある木の中で、一番おそく葉が出て、一番早く散ってしまうのは百日紅だ、ということに気がついたり・・・」(謹慎中のたのしみ 204~205頁)
 「こうしたわたしに前官礼遇を賜るとの御沙汰のあったのは、十二年四月二十九日の天長節の日だった。陛下のありがたい思召しは、事件の直後あったとかで、あれから一年あまりで重臣の列へ加えられ、わたしもどうやら世の中へ出られるようになった。そのころから来客も多くなっていた。私はだれにでも会うことにしていた。・・・私に来客の多いのは、岡田は情報をもっている、というわけだったらしいが、来客が多くて、みんながいろんなことを聞かせていくものだから、いくらかは事情もわかるわけだ。自分のほうから情報を集めなくても、自然とそうなる。」(同 207頁)
 事件のあった昭和11年の冬から翌12年(この年に日中戦争が起る)の春にかけて、岡田啓介は自己を謹慎中の身に置いたということである。
 サルスベリの若葉から黄葉への身のまわりの観察は、昭和12年の春秋の間のことにちがいない。サルスベリという木は実際その通りの習性をもった植物である。
 いまこのメモはミラノ万博から帰りの小松便の機中で書いているが、出発の時には百日白はすでに鮮やかに黄色に変化していたから、一週間を経ているので戻って眺めると散っているかもしれない。
 「組閣当時、だんだん日本が危い方向へいこうとしているから、うまくまとめてやるようにと西園寺さんから期待され、さてやりだしてみたけれど、軍の政治勢力はますます強くなる。これと大きな衝突を起こさないで、まるくまとめながら自分の考えているところへともっていこうとしたが、かえって自分のほうが押しきられてしまう格好になった。アメリカと戦争しては勝てないぞ、と思いながらもこれを止めることは出来なかった。」(同 258頁)
 「こうして今、むかしをふり返ってみると、ただただ非力だったことを思うだけだ。・・・無理をしてはいかん、というのがわたしの信条だった。・・・やれる機運が出来てくるにつれて、自分の考えをやっていく。そういうわけなんだ。しかし、わたしのこんなやり方は、世の批判をうけなければならないだろう。わたしは青年のころから橋本左内を尊敬していた。自分の身を処するについて、大いに学びたいと思い、また知らず知らずのうちに、その影響をうけているかもしれない。しかし、自分のむかしをふりかえることは決して愉快でないんだ。」(終戦に努力した人々 257頁)
 政治において大事な時点で思い切りが足りなかったという反省は後から起るものである。事態に直面しているときは一生懸命にやっていると自認していても、事情に左右されてしまい為すべきことができなかったことが多いものだ。
 これよりさかのぼる昭和5年(岡田啓介62歳)、ロンドン軍縮会議の回想においても、調整的な仕方で我が意を通す彼の考え方が述べられている。
 「わたしのやり方というものは、加藤友三郎さんに学ぶところが多い。あの人はえらいと思っている。ワシントン会議で五・五・三の比率が割合に簡単にまとまって問題が起らなかったのは、やはり加藤さんがえらかったからだ。なんというか、たいへん大きいところのある中庸の人でね。わたしは、加藤さんのお弟子だと思っている。ロンドン会議のまとめ役として奔走するのに、わたしは出来るだけはげしい衝突を避けながら、ふんわりとまとめてやろうと考えたものだ。反対派に対しては、あるときは賛成しているかのように、なるほどとうなずきながら、まあうまくやってゆく。軍縮派に対して、強硬めいた意見をいったりする。要するに、みんな常識人なんだから、その常識がわたしの足がかりなんだ。(以下略)」(波乱の軍縮会議 71~72頁)

 さて今年は戦後70年である。
 本書は、昭和25年に「岡田啓介秘話」として毎日新聞に連載された後、同年同社から「岡田啓介回顧録」として発刊された。そして昭和52年に「ロンドン軍縮問題日記」(池田清氏の解説付き)を加えて、再刊されている。さらに昭和62年に中公文庫として出版をされ、今年2015年に決定版として戸高一成氏(呉市海事歴史科学館館長)の解説が付されて、再版された。時代の要請があるのであろう。
 最後に、いろんな意味で日本の海軍に良くもわるくも大きな影響を与えたといわれる東郷元帥について、岡田啓介が語っているところを引用(一部)する。
 「とにかくイギリスの船を沈めてしまったのだから驚くのも無理はない。伊藤首相など卓をたたいて西郷海軍大臣を難詰したそうだ。西郷さんは、「東郷がでたらめなことをやるはずがない」とすましていたそうだが、朝野をあげて、海軍はとんでもないことをしてくれた、という空気だった。ところが、当時世界一流の国際法の権威だったイギリスの何んとかという学者が「東郷艦隊の取った処置は正しい」と言ったので、さしもの非難もぴたりとやんでしまった。敗戦後の今日、わが国は主張してよさそうなことも全然主張せず、いじけているが、少し国際法を研究して敗戦国にも権利があることを調べてみたらよいと思う。」(成長期の海軍 41頁)

(2015.10.31 記)