西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1076号 権力と道義、個人と国家(マイネッケ「国家理性の理念」)

2015年11月04日(水)

 ヒルティ(1833年―1909年)の「マキアヴェリとヴィーコ」1906年、「歴史における主観的要素について」1904年(著作集第11巻「永遠の平和」所収 白水社)の抜粋を、ずっと以前に作ったことがある。最近それを取り出して眺めていたところ、モムゼンやトライチュケ(同15頁)、ランケ(同24頁)などドイツ人の学者の名前が出てきたので、これらの史家が実際にどんなことを考えて歴史を論じたのかに関心が向き、関係する本を入手しようとした。ランケの件まではよかったのだが、トライチュケの名前を誤って似た名前のマイネッケ(1862年―1954年)の本を選んでしまった。マイネッケはドイツの第二次大戦も経験した人物であり、他の史家と比べてかなり後代に属する。そしてこの「国家理性」という観念的な大部の書物を手にとることになった。
 この「国家理性の理念」(1924年)は、解説によればドイツの歴史学者であるフリードリヒ・マイネッケの主著の一つである。第一次大戦によるドイツ敗北から6年後、1930年の独選挙でのナチス党抬頭の6年前、つまり両戦禍のちょうど中間時点において書かれたものである。
 国家としての行動規範(原理)はどうあるべきか、国家にとって根源的な権力の本質は何か、国家としての道徳的格率はありうるのか等、マキャヴェルリから起して、絶対主義生成期の仏・伊の諸々の学説、グロティウス・ホッブス・スピノザ・フリードリッヒ大王までの絶対主義成熟期の諸説をたどっている。そして最後にドイツの歴史・哲学の伝統に沿いながら、ヘーゲル・フィヒテ・ランケ・トライチュケにそれぞれ代表されるところの近代期のマキャヴェリズム・理想主義・歴史主義が教えるところに論述が及んでいる。
 国家や政治家が健全な力強い国家を維持するために為すべきこと(国家理性)、このことに関し、どこまで功利的視点(国益・国策)つまり権力的動機に従うのか、それとも、理想的視点ないし道徳的責任による行為を追及するのか。両者それぞれの限界や区別はどこにあるのかを論じ、国家の権力衝動と道徳的責任という対立する両者の架橋を「国家理性」の形において見つけ出そうとしている。著者の観念的な表現を使うならば、自然的なものを精神化すること、有益性を道徳化すること、「権力(クラートス)倫理(ユートス)が一緒になって国家を建設し、歴史を創る」(序論5頁)こと、こうした道がはたして国家政治において可能かを探ろうとしている。
(拙注)マキャヴェリの考え(「ローマ史」)については、888号~940号までの関連号(連続していない)を参照のこと。
 本書の冒頭第一章において、マキャヴェルリの歴史的意味を論ずる。マキャヴェルリが、世に言う権謀術策をためらいがちに述べたのではなく、政治の指導理念として言い切ったところが画期的であったとする。マキャヴェルリについてはここでは次のマイネッケの見解を引用することにとどめる。
 「敢然とこの思想を発表し、世界観的に深化された一体系に織り込んだことによって斬新だったのである。」(50頁)、「それによって政治家たち自身に、べつだん新たなものは教えこまれなかったにせよ、ともかく彼らが教えられたということはなんといっても斬新なことであった。というわけは、歴史的諸傾向はそれを原理として把握することによって初めて、その十全の推進力を得て、理念と呼ばれ得るところのものに高まるからである。」(51頁)
 なお、マイネッケは、フリードリッヒ大王(第12章)の項に最も多くの頁をさいているが、大王は史家の系列ではないので本稿では略す。
 さて、マイネッケは反ヘーゲル主義者である(反マキャヴェルリでもある)。
 ヘーゲル(1770年―1831年)の『法の哲学』は「およそ理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。」、つまり現実国家は理性国家でもあるという弁証法によって、「マキャヴェリズムがそれまでは、つねにただ人々がうちたてた道徳的宇宙のかたわらで生存をつづけたにすぎなかったのに、ここに一切の道徳的価値を同時に包括し支持する理想主義的世界観の関連中に組み入れられるという、新たなしかも重大なことがおこるにいたったのである。」(第13章ヘーゲル
474―475頁)
と述べる。
 つまり19世紀にいたって、―これはヘーゲルの学説の影響だけによるものではない―「ドイツにおいてふたたびマキャヴェルリの名誉が回復され」、いわば「私生児の認知のようなもの」が起ったといい、ヘーゲルによるマキャヴェルリの復権を述べている。(同頁)
 以下さらに、マイネッケがヘーゲルを論ずるところを見よう。
 「一切の個体的なものは、唯一の理性―善も悪も、原初的なものも精神的なものも、ともに自己のために働かせることが、ほかならぬ理性の狡智なのであるが―の実現に役立つのである。その時代の二つの大きな主要理念たる同一性の理念と個体性の理念のうち、同一性の理念つまり自然と精神とのもっとも内的な統一や神聖化を求める努力の方がヘーゲルにあっては、はるかに強力なものなのであった。」(同494頁)
(拙注)同一性の理念とは、政治と倫理との関係において二元論をとらないという意味であり、個体性の理念というのは、個人が超個人的な国家に対して独自の役割をもつことを示す概念である、としておく。
 「この哲学者を囲繞していた現実の汚れも彼をけがしはしなかった。ヘーゲルはむしろ戯れ半分の手つきでその汚れものをまるめて、それを自分の宮殿を建てる建築石材に作りあげた。国家理性もまたこれらの石材の一つだったのである。」(同499頁)
 「その構成および展開の仕方において、強引なところがあると同時に深遠であり、雄大であると同時に錯雑なところのあるヘーゲルの体系は、学説全体としてそれほど長い間維持されえなかった。だが、悪から善を生じさせる理性の狡智についての彼の思想は、非常に大きな影響を及ぼした。一切の生活経験および歴史経験は事実、善と悪との間の不気味な関連を実証していた。ところが、ドイツにおける権力政策的な思惟に対するヘーゲルの呪うべき影響がどこにあったかといえば、この不気味な点が忘れられて、国家理性の自然面と暗黒面へも一つの曲飾的な光が投ぜられえたという点にあったのである。」(同500頁)
 このようにマイネッケは、理想主義的な岸辺に立ちながら、やや修辞的な表現をもちいてヘーゲル批判をしている。上記の引用部分に続いて、ヘーゲルを「法外なオプティミズム」、「道徳的感情を鈍くし権力政策の行き過ぎを気軽にひきうける重大な危険性を内蔵していた。」とも言っている。
(拙注1)ヘーゲルの有名な「理性の狡智」については、「歴史哲学」(上)武市健人訳 序論101頁 岩波文庫を参照のこと。
「特殊的なものは、互いに闘争して、一方が没落して行くものにほかならない。対立と闘争に巻き込まれ、危険にさらされるのは普遍的理念ではない。普遍的理念は侵されることなく、害われることなく、闘争の背後にチャンと控えている。そしてこの理性が情熱を勝手に働かせながら、その際に損害を蒙り、痛手を受けるのは理性ではなくて、この情熱によって作り出されるものそのものだということを、われわれは理性の狡智と呼ぶ。」
(拙注2)ヘーゲルは、世界史は個人を全く度外視するものであり、もろもろの民族の精神の行為を報告するものと見る。
「世界史的行為とその遂行者に対して、このような世間的観点から道徳的要求を掲げることは当を得ない。彼らは、このような要求とは無関係なのである。彼らに対して謹慎だの、謙遜だの、博愛がどうの、慈善がどうとか、というような私的徳目の泣言を並べ立ててみても、はじまらない。一体に世界史は道徳の領域や、これまでにもうずいぶん議論したところの道徳と政治との区別が立てられるような領域とは、全く層を異にしているといってよい。」(歴史哲学(上)序論158頁)
(拙注3)『君主論』に関して、ヘーゲルは、「この本はよく、冷酷極まる暴政の綱領に充ちたものだというので毛嫌いされるが、しかしマキアヴェリは国家形成の必然性という高い見地から、当時の状況に際して採らざるを得なかった原則を打ち立てたのであった。個々の領主やその支配権は徹底的にやっつける必要があったのである。(中略)容赦も何もない暴力手段、あらゆる種類の権謀術数、殺害までも許しているという点でわれわれの自由の概念と両立しないものであるにしても・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、豪族共の根性にあの手のつけられないほどの良心の欠如と極悪非道が喰い込んでいた以上、この豪族共をやっつけるためには、これより外に仕方がなかったのだという点は、われわれとしてはやはり認めてやらなければなるまい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」と述べている。(歴史哲学(下)ゲルマンの世界121―122頁 傍点小生)
ちなみに「歴史哲学」のこの箇所について、ヘーゲルが「ドイツのマキアヴェルリ」などとも非難されることについて、訳者の武市健人は注解して、「マキアヴェルリが、あのような立場をとらざるを得なかったことこそ、反面には当時のイタリアの状況が如何にひどいものであったかを示しているのであって、ヘーゲルはここで史家として、公平に見ているのである」として、むしろそこにヘーゲルに現実的、歴史的、客観的態度があると弁護している。
 次にレオポルト・フォン・ランケ(1795―1886年)について。
 このランケの項も、ドイツ的な抽象の多い表現、大仕掛な物言い、文学的な言い廻しにじゃまされて文意は分かりにくい。長いところもあり抽象的な文章だが以下にあえて引用する。
 「彼にあっては結局汎神論ではなく、万有在神論に帰着した。なるほど時には汎神論的(パンネンティスムス)な調子をひびかせ、それとともに歴史的世界の個体性の充実中に投ぜられた眼差しが呼びさまさずにはいなかったところの汎神論的な誘惑を、かすかに自らのうちに奏しさせはした。けれども、宗教的な畏怖と批判的な慎重さ、形而上学的な動機と経験的な動機とを不思議にも結合させながら、ヘーゲルの足跡にしたがって神を全面的に歴史のなかにひきいれて人類を生成しつつある神にまで高めることをはばかったのである。もし仮にそうしたことをやっていたとすれば、あの歴史的諸現象にむかった際の見事な偏見のない公平な態度を得てはいなかったであろう。これこそは、彼の研究諸結果の永続性や確実性およびそもそもその学問的偉大さの本質的基礎をなしているものなのである。」(第15章ランケ 513頁)
 「ランケは個体性の原理がともすれば誤って導きがちであった相対主義に終始おちいることがなかったのである。けれども、その結果として、彼の歴史考察や価値尺度の中に論理的には決して解消することができぬ二元論が生ずることとなった。」(同514頁)
 「かくして、ここにきわめて明瞭に、ランケの歴史的思惟における可変的なものと不可変的なものとの尺度の二元性が現われている。もしランケにしてこの二元論を完全に意識し徹底的に考察したとするならば、多分後のヤーコプ・ブルクハルトのようにある悲劇的なペシミズムに到達していたであろう。」(同519―520頁)
(拙注)ブルクハルトは、権力と道徳の関係を抽象的に論じることを拒否しているが、個人とくに「偉人」については歴史における役割をみとめている。ブルクハルトに関しては、709号(歴史における幸不幸について)、710号(世界史的考察)、711号(偉大について)を参照のこと。
 「ランケの史的全見解はヘーゲルのそれよりもはるかに明るく、おだやかでかつ心をひく光をもって歴史のうえを照らした一種のオプティミズムであった。このランケのオプティミズムはなにに基づき、またなぜヘーゲルのそれよりも明るくかつ確信的な光を放っていたのであろうか? ヘーゲルはそのオプティミズムを、漸次大胆に高まりつつ世界の現実的な諸現象ならびに精神的な諸現象を唯一最高の理念から敢てひきだそうとした、合理的な抽象化の方法によって得た(拙注 この文章やや不明)。ところが、個体の生活はそれがために影芝居となってしまったのである。これに反し、ランケはドイツの歴史的思惟の発展において決定的な役割を果たした。彼は合理化や抽象化の方法、すなわち概念的に把握可能な諸理念から事物を引出すあらゆる方法と袂を分ち、その代り―浪漫派、シェリングおよびヴィルヘルム・フォン・フンボルトがすでに準備していたことであるが―事物と理念とを≪生けるもの≫の統一に融合させる。『予感もされなかった独創性を帯びて突如として汝の眼前にたちあらわれる現実的=精神的なるものは、どんな高次の原理からも導きだされるものではない』と『政治問答』には述べられている。歴史における個体的な生は普遍的な理念からは導きだされないが、それを構成している特殊な理念に充溢されており、しかも理念と肉体、精神と物体とが本質的に一者であり、またそれらすべての周囲には本源的な神の創造力の呼吸がとりまいている―これが、ランケが与え得た個体性思想と同一性思想との綜合だったのである。それゆえ、彼の歴史哲学もまた一種の同一哲学であって、神即自然の直観を求めるドイツ精神の根深い欲求によって養われていたのである。彼がただ神即自然と神との同一性だけを拒否したことは、われわれのみた通りである。」(同520頁)
 歴史における個性の生き生きした役割を認めているランケの方にマイネッケが共感をもっていることを示している部分ではないかとみる。
(拙注1)ヘーゲルの方は「歴史哲学」((上)158頁)において、「民族の精神が現実の外的な地盤の上で身にまとうている個人的な形態のことは、その専門の歴史書に委せておいて差し支えないもの」と述べている。ヘーゲルは哲学の側から個別歴史をながめており、ランケのような史家は歴史の角度から一般哲学を引きだそうとする違いがあるか。
(拙注2)上記の『政治問答』というのは、ランケ著『政治對談』1836年(ランケ選集第4巻「十九世紀ドイツ・フランス史」村岡晢訳に所収 昭和18年三省堂)のことを指しているものと思われる。この『問答』は、フリードリヒとカールという二人の人物の名をかりた政治対話の形式になっている。(名前から連想される歴史上の人物との関係は、解説がなく不明)。以下その部分を抜粋する。
「カール さうすると、すべてが野蛮な暴力次第といふ事になりはしないだろうか。
フリードリヒ 戦ひと云ふ言葉が示してゐる程のものぢゃないよ。土臺はあるし結合は作られてゐる。それが今や立ち上って世界的な意義を獲得するに至るためには、何より先づ道徳的精力が必要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なのだ。これによってのみ、競争に於て相手の敵を打ち破ることができるのだ。
カール 君は、血腥い戦争商売を道徳的精力の競争と見做してるが、あんまり崇高に考へないやうにし給え。
フリードリヒ 實際そんなに崇高ではなかった我々の祖先でさへ、さういふ風に考へてゐたことは君も良く知っているだろう。あのテンクテリ族※やアムシヴァリ族が無人の地を奪ひ合ってローマ人と争ったのもこのためだったのだ。ところで實際、君は昔からの大きな戦争で、眞の道徳的精力が勝利を得たのだといふ事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・をはっきり云へないやうな戦争を挙げることはできないだろう。」(同書441頁 傍点小生)
※カエサルの「ガリア戦記」には、ライン右岸に近い所に住みゲルマニー人の部族として登場する。後者のほうの部族名は出ていない。
(拙注3)ヒルティは、ランケの学風について賛成はしていない。「彼には、学識とか叙述の客観性とかによって補われたり代えられたりしない、強力な大きく形成された主観性が欠如している。」(「永遠の平和」225―226頁)。その結果、政治的反動主義に利用されたとみる。
 そしてトライチュケ(1834―1896年)について。
 「トライチュケは国家の本質は、権力にほかならぬとくり返し告知し、それによって国家の本質を狭溢化し、われわれの生活の闘いにおいて簡潔な主導命題を要求する無数の人々を、たんなる権力の過大評価や尊敬へと誤って導き、かくして国家の根本問題を粗雑化するにいたらせた」(第16章トライチュケ542頁)
 「トライチュケの歴史叙述についてはこういってよいであろう。それは偉大な歴史的伝統のもっとも古くかつ直接にもっとも人間的な形式たる英雄叙事詩に、同様になみなみならず精神化された新しい大きな可能性を作り与えたものだと。人物が歴史を創る―それは彼の言葉であった。(中略)個人的な力や激情と大きな即物的必然性の支配との連関、また、そちこちの国家理性の指導的天才との連関が、そのために消失はしないが、それは色あせてもはや注意をひかない。対外政策を理解することを学ぼうと欲する者は、トライチュケにおけるよりもランケにおいての方が比較にならぬほど多くのものを見出すだろう。」(同544―545頁)
(拙注)ヒルティは、トライチュケの業績はみとめながら、ドイツの統一を望んでビスマルクの現実政策を支持し、国家主義に傾いたことについて批判的である。(ヒルティ「永遠の平和」15頁)
 マイネッケは、本著のあとがきのところで、著者にとっての当時的な問題を次のようにまとめている。
 国家の権力政策の欲望を呼びさまし、戦争の危険を高め、呪うべき運命をもたらしているのは、現代(注 マイネッケの当時)における軍国主義(国民皆兵導入、軍拡論争、国家の存亡事態化)、国民主義(民族・国民戦争、領土回復運動)および資本主義(技術戦争、帝国主義)の「三つの要素」とその相乗作用であると論述する。(第17章「回顧と現代」)
 
 さて最後に、第二次大戦後にマイネッケの著作集が新版(1957年ミュンヘン)として出された際に、刊行者の序文(本著の冒頭に訳出されている)として付されたヴァルター・ホーファーの総括的な説明の中から、その一部を引用する。
 「実際、マイネッケはランケとブルクハルトとの間の歴史思想家として位置づけられるのであって、そうすることによって彼の独創性がそこなわれることは少しもない。権力本質の問題―これは『国家理性の理念』の中心問題である―を論究するさいには、ブルクハルトの精神がマイネッケを支配していたのである。戦前の同一哲学的な歴史観や国家観はランケやヘーゲルにひとしく負っていた(以下略)」(刊行者の序文 7頁 ヴァルター・ホーファー)
 マイネッケは権力そのものは「たんに悪への誘惑者たるにすぎない」とみた。「ランケは権力そのものに精神的存在が顕現すると考え、ブルクハルトは権力その
ものは悪であると、それに反対の立場をとったが、マイネッケは権力の本質を善でも悪でもなく、倫理には無関係の自然のものと規定することによって両者を超
えた。」(同22頁)
フリードリヒ・マイネッケ「近代史における国家理性の理念」1924年 菊盛英夫・生松敬三共訳(みすず書房1976年)

(2015.10.25/10.31/11.6 記)