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1072号 芋粥の味

2015年10月14日(水)

 「芋粥」の話は、今昔物語(本朝世俗部)の中でも説話として白眉であると思う(92号参照)。さらに今様に言えば、藤原利仁将軍の都人に対する歓待と一種の戯れは、地方への観光エージェントの元祖になるのではないかと見立てたいのである。
 先日(10月4日)、敦賀駅前広場の整備が完了し、その際「芋粥」のジェラートの試食の機会をえた。それ以前にも、お粥の様々の試作品や商品を何回か味わったことがあるのだが、文字通りの決定版には会っていない。もともと物語の「芋粥」の本体がどんなものであったのか、古い文献などに解説がない訳ではないが、最終的に材料や料理法に不明なところがある。昔のものに近いはずのものを作り出したとしても今の人たちのぜいたくな口に合うのかどうかもわからない。まさに試行錯誤なのであるが、いずれにせよ現代風にアレンジ(?)した方がよい結果になるのではないかと思える。
 さて、試作会の際に敦賀市からいただいた手づくりの「芋粥と敦賀について」のパンフレットには、「芋粥」の意味や伝承が解説されている。
 敦賀市南部の粟野地区には、古くから藤原利仁将軍の家臣の末裔と称する人々が30世帯ほどあり、農民にもかかわらず江戸時代には名字帯刀が許されていた(?)と書いている。今も1月17日は天満神社(公文名)に集まり、将軍のことを祭っているということである(詳細は調査中と)。
 地域の周辺には館跡と伝えられる「春日野」、利仁将軍の鞍などを納めた「鞍塚」などの伝承地が残っている。近年の秋祭りには芋煮鍋を振るまうようだが、これは物語芋粥とどれほど近いものなのであろうか。
 また福島県の伊達市の伊達政宗と藤原将軍の一族とが縁戚関係があったようで、鎌倉時代は2代伊達宗村が粟野に隠れ住んだという話もあるらしい。
 この黒河川流域に、公文名(くもんみょう)、砂流(すなながれ)、御名(ごみょう)、山(やま)が伝承の残る4地区である。
 なお、お客として歓待された五位の都人にちなんだ五位川は、この谷とは1つ東の疋田のところを流れる河川である。

(2015.10.12 記)