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イッセイエッセイ

1071号 カール・シュミット著「現代議会主義の精神史的状況他一篇1923年」(樋口陽一訳 岩波文庫 2015年第一刷)

2015年10月14日(水)

 表紙には以下のように、この文庫本の内容要約を広告的に表現している。
 「やがてナチスの桂冠法学者となるカール・シュミット(1888―1985年)が自由主義に対する体系的批判を行った初の著作。不安定なワイマール体制への幻滅から、議会主義の精神史的な基礎は過去のものになったとし、議会主義と民主主義の連関を切断する。独裁理論を考察し、ドイツの新しい政体を暗示した問題作」と。
 樋口陽一氏の新訳はかなり生硬なところがあり、また本書の問題点を訳者として巻末に解説しているが、これもかなりの難物である。
 解説におけるポイントらしき部分は、以下のところかと思われる。
 『 「カール・シュミットを読まなければならないのか?」という問いが、あらためて繰り返し論争の主題となるのは、「デモクラシーの敵」一般、「独裁の正当化」一般としての彼が問題なのではない。第三帝国にコミットしたこと一般ですらない、とも言える。何より、彼の徹底した反ユダヤ主義の言説の累積が、問題とされるのである。』
 『繰り返すなら、デモクラシーにとって「危険な思想家」一般が問題なのではない。危険でない思想は思想に値しないだろう。そうではなく、怨恨、憎悪を理論の名のもとに説くことが、問題なのである。』と解説するのである。
 以下、本書においてカール・シュミットが主張した「理論」のいくつかの部分を引用してみる(付記小文字は感想である)

「比例代表制および名簿方式は、選挙民と議員との間の関連をなくしてしまい、その不可欠の手段である会派強制によっていわゆる代表原理(ライヒ憲法21条「議員は全国民の代表である。議員はその良心のみに従い、委任に拘束されない」)は無意味になる。」(「序言」11頁)
 比例代表制は、代議制と国民主権との相互矛盾をあからさまにしてしまうことを述べているように読める。

「政治および国家についての思考のどの時期も、その時代にとって特殊な意味で自明に見え、おそらく多くの誤解と神話化のもとでとはいえ、広汎な大衆にとって議論の余地なくはっきりしているような、諸観念をもっている。(第一章「民主主義と議会主義」15頁)
 各時代にそれぞれ通用してきた政治制度は、歴史的な文脈の下では当り前で納得がゆくものであったとしても、いざ何故それが当然のことかと改めて問い直されるとき、あやふやな状況になること、を言っているのか。

「ナポレオン三世の成功とスイスの人民投票の結果について見れば、民主主義は保守的でも反動的でもありうる。」(同18頁)
 世論や民意などと言うものは、どんな政治傾向にも容易にコミットしうる事実を、著者の生きた時代からそう遠くない時代の例を挙げて読者につきつけているようだ(一方で概念上の論理づけにすぎないようにも見える)。

「民主主義は、軍国主義的でも平和主義的でもありうるし、進歩的でも反動的でも、絶対主義的でも自由主義的でも、集権的でも分権的でもありうる。そしてさまざまの時期ごとにさまざまであり、だからといって民主主義であることを止めるわけではない。」(同20頁)
 現実の政治プロセスにおいて、さまざま生じる政治体制(民主主義を一様に標榜する)に関し、なんでもありの原因となっている政治的な混乱、傾錯、強制といった力学を抜いた主張になっている。しかし、その後の第二次世界大戦、冷戦期、現代の各国の緊張関係等とこの主張をどう関係づけるべきか。

「民主主義の定義にとって、一連の同一性ということがのこる。下された決定は決定する者自身にとってのみ妥当する、ということが民主主義の本質に属する。そのさい多数決によって敗れた少数派が無視されなければならぬ、ということは、理論上かつ外見上のみ困難をひきおこすにすぎない。」(同21頁)
「まず、実際、真の民主主義の代表者たちだけに政治上の権利があたえられることによって、まさしくその瞬間に、新しい貴族制が誕生するのである。」(同24頁)
 いずれも代表民主主義の問題点を指摘している。

「近代議会主義とよばれているものなしにも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして独裁は決して民主主義の決定的な対立物でなく、民主主義は独裁への決定的な対立物でない。」(同32頁)
 この部分は、訳者の解説するところの議会主義と民主主義の「切断」、民主主義における独裁「移行」というシュミットの決定的な問題主張の部分か。

「政治生活の公開性は、それが公開であることだけですでに正しく良きものと見られるのである。公開性は、さしあたっては絶対主義の官僚主義的・専門家的・技術主義的な秘密政治に対抗する実用的手段でしかなかったにもかかわらず、絶対的な価値を獲得することになる。」(同41頁)
 議会制度に固有といわれてきた公開討議(公論)に対し、これを逆手にとって絶対的な要素ではないと論じているようだ。

「均衡という観念は、今日いちばん重要なものである。16世紀以来、人間の精神生活のあらゆる領域にわたって、あらゆる種類の均衡が支配している。(W・ウィルソンは、自由についての演説のなかで、おそらくはじめてそのことを指摘した。)」(第2章「議会主義の諸原理」44頁)
 バランス・オブ・パワーという観念、その限界性や観念性を主張しているらしい。

「権力分立が憲法と同一物であり、憲法の概念要素をなすということはカントからヘーゲルにいたるまでのドイツ国家哲学の思考にとっても、自明のことと見られている。それゆえにまた、独裁は、かような思考様式にとっては、民主主義への対立物なのではなくて、本質的に、権力分立の廃棄、すなわち憲法の廃棄、すなわち立法権と執行権の分離の廃棄なのである。」(同47頁)
 独裁とは、シュミットにとって反民主主義ではなく、反権力分立主義なのである。政治には良いと悪いがあると考えるか、或いは、悪いとよりましなものがあると考えるか。

「議会主義を廃棄する独裁概念が再び現実性をもったものになるのは、このような議会主義的立憲主義に対抗してであって、民主主義に対抗してではない。」(第3章「マルクス主義の思考における独裁」63頁)
「哲学が思索のなかにとどまっているかぎりは、独裁の出番はない。それが活動的な人間によって本気にうけとめられるやいなや、事態はちがってくる。」(同73頁)

 さて、シュミットはこのように述べて、歴史的にみて議会制が近代民主主義と同時代性を有してきたこと、また古くから言われている便宜性(共同体の全員がいつでも集合できないことに対する代替のもの)があること、という存在理由から正当化されうるにしても、これらの論点は議会制が即ち民主主義であるとする論拠にはならないと論ずるのである。
 なぜなら「実際的技術的な理由から国民にかわって国民の信任をえた人びとが決定するのならば、その国民の名において唯一人の信任をえた人が決定することもできる。この論拠は、民主主義的であることをやめることなしに、反議会主義的カエサル主義を正当化することになろう。」(2章35頁)とまで弁ずるのである。
 カトーやブルータスはさぞかし怒りをおぼえるであろう。
 それにしても政治上の理論づけとその理論家の感情とは、一体いかなる関係にあり、理論と意図をどう評価すべきなのであろうか。

(2015.10.3 記)