西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1066号 歴史家の物の見方―「中国史」(宮崎市定著)

2015年09月19日(土)

(党派争いと便宜主義者)
 中国宋の時代は、世界史で習って名前を憶えている王安石など、いわゆる新法党と旧法党の激しい対立抗争があった。そうした政策をもこえた政治対立の繰返しの中で、徽宗皇帝の時代に至り中道政治が行なわれようとした。しかし残念なことに両党派の争いは対立の深刻化によって宿命的となり、徹底的な相手方の排除、明白な勝敗の結着が行きつく先となった。
 「そしてこういう際に起りがちなことは、政治に信念や節操をもっている者はかえって駄目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・で、時に応じて何とでも変り、必要な際には何でも利用して憚らない便宜主義者が勝ち残りやすい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ものなのである。」(下69頁 小見出し、傍点は小生、以下同じ)
 その代表例として宋の大臣だった蔡京が挙げられている。ナポレオン時代のフーシエと同類か。

(都市と地方の景気のバランス)
 北宋は遊牧民との抗争に経済的負担をしいられ、財政が窮迫化する。
 「一方では戦争景気に乗って大儲けをする商人があれば、他方では臨時的な物資の徴発、租税の増徴に苦しむ人民が出る。いつの場合も同じように、都市よりは農村が、こういう被害を多くこうむる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のであった。」(下45頁)
 蔡京が行なった悪政により、都市と農村間で景気のアンバランスが甚しくなり、地方や農民が割をくうと観察しているのである。
 「彼の政治は出来るだけ地方で搾取を行って、その収入を都市へ運んで浪費するにあった。こうすれば天子の膝元である都市では、好景気に浮かれて、人民が大平を謳歌すること請合いである。(中略)地方の人民がどんなに苦しもうが、そんなものは世論となって聞えて来はしない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・都会の群集こそが、政治の品定めに発言する権利がある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のだ。世論の形成に決定的な役割を果すのは知識階級、官僚群である。蔡京はその動向にも細心の注意を払った。官僚間で人気を得るには、彼らが最も欲するもの、つまり官位を惜しみなく与えるに如くはない。」(下74頁)
 為政者の関心は都会中心である、というのが今は昔の歴史ということである。

(よい結果のためには多くの要因)
 「しかるに父より丁度三十歳年下の子、蔡攸さいゆうは言わば遺伝的に生来の幇間であった。それがまた父の神宗とは似ても似つかぬ鬼子、天成の放蕩児たる徽宗と相棒になったからたまらないのである。すべて良い結果が実現するためには、無数の有利な要因が必要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・であるが、悪い結果が起るためには、ただ1つでも大きな欠陥があればそれだけでも十分・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なものである。不適任な天子の上に、さらに不適任な大臣では当然国家が危殆きたいな運命に曝される所へ、今度は外部的な要因として、これまで北方国家の安全を保障してきた遼の滅亡という大事件が発生したのである。」(下76頁)
 女真族の金の興起と南下がはじまる。歴史にいう文弱の弊と内憂外患の不幸な組合せである。

(経済の力と文化・政治)
 明代の蘇州のまちは富民の北京への強制移住などにより、永楽帝から弾圧をうけたが、その度に立ち直った。都市の自然環境(大平野の中心拠点、運河網)や生産活動(穀物の宝庫、絹織物、染色加工の産地)に対してまでは弾圧はできなかったのである。

 
経済の中心には文化が吸いよせられる・・・・・・・・・・・・・・・・・。蘇州及びその周辺には学問が栄え、毎三年の科挙にはこの地方出身の受験者の成績がずば抜けて優秀である。従ってその中から高位高官に上る者も輩出するが、しかし中国の文化は彼らの手によって高められることは期待できない。官界人となってしまうと俗務が多くて、若い時のような勉強が続けられなくなるのだ。この点において明代の官僚は宋代の士大夫に劣る・・・・・・・・・・・・・・・。宋代には高名な文人学者が、政治家としても重要な地位について活躍した者が多い。明代の文化はかえって官界遊泳に失敗して仕進に望みを絶ち、一介の市民として都会の塵の中に埋もれた、いわゆる市隠しいんによって推進された。この点もまた宋代と違っている。」(下206―207頁)

(2015.9.10 記)