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イッセイエッセイ

1065号 歴史は繰り返すか

2015年09月11日(金)

 歴史は繰り返す、History repeats itself、といった諺は、大抵どの国にもあるのではないかと思う。昔あった事とよく似た出来事が、現在でも起こることがあり、そういう事実に対し繰り返していると感じるであろうからである。
 個人の場合、ほとんど同じような行為を常習的に何度も繰り返すことは大いにありうる。しかし人間集団からなり立つ歴史において、人間の本質は変らないと考えて、同じようなことが他の時代にも繰り返されるはずと言ったとしたら、それは比喩としてはありえても史実としてはありえないであろう。
 しかし、ある一定の長さの時代において、飛躍的な進歩がほとんど起らずに長く停滞が生ずることはありうる。その結果、社会的な構造変化や発展性が感じられず、ほとんど以前の時代に対して「繰り返し」にすぎない、と歴史家から評価されることは大いにありうると思われる。
 宮崎市定「中国史(上下)」には、そういう意味での「歴史は繰返す」(131頁)という表題がついている時代がある。
 「文化の進展が足踏みすると、それ以後の歴史は繰返しに外ならないことになる。事実、宋以後の歴史には、繰返し現象が見られる。」(下132頁)
 宋は北方民族と対抗、その間に社会内部の矛盾の蓄積、老化現象の発生、やがて北方民族(遼、金、モンゴル)の勢力に敗れ滅亡、元王朝による支配<宋から元までを第一ラウンド>。次の明、清二王朝、明は宋王朝の再来を任じる、北方民族(タタール、満州民族)との抗争、明王朝の老化、満州清王朝による東亜制覇<明、清が第二ラウンド>。
 「こういう立場に立てば、宋の繰返しが明であり、元を繰り返したのが清である。さらにこの四王朝がいずれも近世の王朝であるという点において、後続の三王朝はどこかで宋の繰返しを行っているという感が強い。歴史というものはあらゆる角度から見直し、検討を深めることによって理解を深めることが出来るものなのである。このような考察を加えるとき、根本の基準となるのは宋代の歴史である。私が必要以上と思われるかも知れないほど、多くの頁を宋代のために割り当てたのは、このような理由による。」(下133頁)
 歴史は繰り返す、History repeats
itself。このような切れ味の良い響きの諺は、短い言葉で真理を突くのが得意な中国語の中に当然あるものと思ってさがしてみた。しかし、どうも見当らないのである。「历史是会重演的(lìshǐ shìhuì chóngyǎn de)」という言い方はあるようだが、なぜか説明的な表現にすぎる。
 ヘーゲルは「歴史哲学」の中で次のように極論している。「シナは古代においてすでに、今日のような状態に達していた。というのは、客観的な存在と、それに対する主観的な運動との間の対立がまだないために、変化というものは一切なく、いつまでも同一のものが繰り返し現われるという停滞性が、われわれが歴史的なものと呼ぶものに取って代っているからである」。
 これは19世紀前半のヨーロッパから見た東洋に対する歴史観であるが、こうした前提に立つならば、繰返しが常態であるから「繰返す」という明瞭な観念すら生まれないことになる。そうであれば歴史についての歯切のある四字熟語は生れないことになる。

(2015.9.6 記)