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イッセイエッセイ

1063号 賢哉回也、一箪食、一瓢飲、在陋巷(xián zāi huí yě  yī dān sì yī piáo yǐn zài lòu xiàng)―新続「中国史」

2015年08月26日(水)

 古代の聚落は洪水、あるいは敵襲にそなえて、その周囲に牆壁しょうへきをめぐらして自衛したが、これを城(chéng)と称した。城という字はその形のように土を盛ったものであり、その目的は専ら防衛にあったので、守るという意味があり、同じ目的をもったたて(gān)と合わせて、干城(gān chéng)という熟語もできた。―――城下の一般居住地は人民の生活が向上すると、再びその周囲に牆壁を設けて守り、これをかく(guō)と称した。郭には取巻くという意味があるが、防禦という意味は含まれない。―――ここに言わば内城外郭式とも称すべき都市が発生したのである。戦争の際、強敵の侵攻にあえば、郭は容易に攻略されて、市民は城内に逃げ込まねばならなかった。―――郭内を劫掠ごうりゃくされるのは、市民の富が進展すると共に、その経済的打撃が深刻に感ぜられるようになる。ここで各国は争って外郭(wài guō)の補強に努め、―――ここにおいて郭は防衛の第一線となり、やがて郭も城と呼ぶようになった。同時に内城の防衛施設が閑却され、あっても無きが如き状態となって、最後には消滅してしまう。―――
 城郭(chéng
guō)内の民居は、通路が縦横に走り、大きいものを街(jiē)、そこから分れる枝道を衢(qú)と称した。街衢によって囲まれた一地区を里(lǐ)と称し、その周囲には土塀を廻らして、これを牆(qiáng)と呼んだ。里の入口に閭(lǘ)と称する門があり、里民が出入するには必ずこの閭によらなければならなかった。閭を入って居民の門前に至る道路を巷(xiàng)と称し、それが狭い露地である時には、陋巷(lòu xiàng)という。各民家は周囲を土塀で囲み、これをも牆と呼んだ。―――閭門のまわりには空地があって塾(shú)と称し、里巷の小児はここに集まって遊んだ。大人のひま人は街衢の交叉する四辻に集まって、ひまつぶしをした。(宮崎市定「中国史」(上)125~127頁に、中国語拙記)

(2015.8.15 記)