西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1061号 歴史のカテゴリー(景気、封建制など) 続々(宮崎市定「中国史」)

2015年08月26日(水)

(景気)
 都市国家から領土国家そして古代の最後に帝国が生まれるのは、東西軌を一にしている。秦漢の中国古代帝国、ヨーロッパのローマ帝国が生まれたのは、歴史の長い進化の結果である。しかしこれが「何によって最もよく象徴されるであろうか」。
 著者はそれは「経済の発展」であり、「貨幣数量の増加」が指標となるとする。「古代は好景気が連続した時代であり、更に言いかえれば、古代なりに技術の進歩、資源開発、商業の拡大など高度成長の行われた時代」であると見る。((上)62頁)趙翼記す「漢代に黄金多かりき」と。
 著者はあとがき(自跋)において、「私の経済史観とはすなわち景気史観に外ならぬ」として、道徳史観、階級史観などをとらない。

 三国以降、唐末五代に至る中国の中世には、古い文明をもった西域との交通交易が開けて、武帝以降は中国は輸入超過国になり、不景気の時代になる。貨幣経済の衰退、貴賤階級の固定化など進化現象が停頓し、土地への投資が選ばれるようになる。また、遠心力が働いて分裂割拠に逆戻りが生じる。唐王朝の三百年も全体の傾向としては統一の時代とみることができないとする(唐を古代帝国とする反対論もあるようだ)。(68頁~70頁)
(中世的唐王朝)
 「中国中世の政治形態を貴族制度と理解する。これは内藤湖南博士の唱説された所で、当時実際に社会を指導した勢力は皇帝ではなくて、貴族であったとする。」(73頁)
 筆者によれば、皇帝は軍閥から出た成り上がり者であり、革命の繰返しによる短命王朝が多く、その家柄は累代の貴族(遠く漢代に淵源)に及ばず、一般から尊敬もされなかった。そのため貴族群の信頼を失うと天子の地位は保て得なかったとする。
 ところで貴族と皇帝の出自のちがいを世界史の授業ではっきり教えているであろうか(歴代皇帝の同族を貴族と無意識に理解する誤解)、日本の武家(将軍)と貴族(公卿)は、源平以降、職務的にも地域的にも分裂するとみるか。
(異民族と中世)
 「中世はまた異民族侵入の時代である。これは中央政府の弱体化、政府の動員可能な人口の減少、貴族の私利追求と政治に対する無関心などから生ずる必然の結果と言える。」(75頁)
 「中国中世の形勢は、西洋の中世と酷似する。西洋中世もまた異民族勢力伸張の時代であり、(後略)」(75頁)
 筆者は言う。隋唐も漢人王朝と称したが甚だ異民族化した中国人であった。中国の中世は、西欧のそれと酷似しており、ローマに侵入した招かざる異民族の客もやがてヨーロッパを舞台とする西洋史の主役となる。
(封建制と貴族制)
 「封建制なるものは原来は最も未開な民族の間にその素因が蔵せられており、彼らが文化民族の住地に侵入して文明化した際に成立しやすいもので、その点からいえばむしろ古代の延長、ないしは変形といってよい。従ってそれは古代においても起り得るし、よしんば近世にさえも成立し得る。西洋においては偶然にそれが古代の末期に際会したので、中世の特色になり得たのではないか。」(76頁)
 西洋の封建制は、君主が臣下に領土を付与、代償としての忠誠(主従の身分関係)、一方、中国中世の貴族は一応皇帝権力によって統制されており、無政府でもなく選挙皇帝でもない、封建制はもともと北方系異民族の風習とする。

その他参考となる事項以下のとおり。
 隋の煬帝(二代)の大運河が開鑿して後、盛んにこれが利用されたのは唐代中期以降、また文帝(初代)が開始した科挙制度が貴族的運用から脱却したのは、宋代に至ってからである。「中国のような広大な社会では、開始と盛行との間にはいつも百年単位のずれがある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」(「煬帝の運命」(上)318頁 傍点小生、以下同じ)
 隋王朝の成立の前は、五胡十六国そして南北朝(4世紀初頭~6世紀末尾)の大分裂の時代がある。「名分論のやかましい中国」では北周をうけた隋の正統性を主張するため、北周とその前の西魏が正統という議論が起った(謝啓昆の「西魏書」や司馬光の「資治通鑑」はこの説によるという)。しかし、中国では北朝を正統、南朝を閏位とする説はほとんどなく、経緯からみて西魏の実力も名分もあやしいと言う。こうした「正閏争いは全く瑣末な議論に過ぎないが、こういう点を争う所に中国的思考の特色が窺われる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・とは言えるであろう。」(309頁)
 「粛宗から徳宗に至る間に始められた一連の新経済政策は唐の国家の性質を一変せしめた。これまでの武力国家はここに至って財政国家に変質した・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のである。何よりも財政を優位におき、歳入を増して財政を豊かにすれば、平和も文化もそれで購えるという考えである。国内に叛乱が起れば、金銭を与えて異民族の軍隊を雇入れて使い、今度は異民族国家から侵入を蒙れば、金銭を与えてこれと和解するのであった。こういう財政国家方式は・・・・・・・その後の宋王朝に対して先例を示した・・・・・・・・・・・・・・・・・ものであり、またこれは中国に限らず、西アジアの文明の古い国においてしばしば実行された政策であった。」(「財政国家への変質」336頁)
 現代においても再現していないか。

(2015.8.13 記)