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1056号 「時と人格」(西田幾多郎全集から その1)

2015年08月23日(日)

 暑気を払いたく思い「西田幾多郎全集」(岩波書店2005年)という難しそうな全集の、その中でもいくらか易しそうな第13巻(講演)を選んで挑読してみた。表題の論文章、西田幾多郎が1932年に玉川学園で行った特別講演である。
― 時は自然に過去から未来へと流れゆくものではなく、時間は自己というものにそして現在というものに、その根拠があると考える。独立した個人(人格)が互いに社会的に結びついていることから、各人の時の総合として、時の絶対性がはじめて保証される。そして精神も物質も別のものではなく、「作られたものから作るもの」として、行動することによって在るものが人間、教育、文化である。―
 といったようなことが、この講演で述べられている。しかしどう要約しても厳密には至らず、不正確な我流の説明になることが難点である。

 「吾々のゐるところは現在であって、その現在から時が考へられるべきである。」
 「過去は記憶である。現在は直覚するのである。未来は待ち受けることである。即ち、吾々の心からして、過去、現在、未来が生じるのである。時は人間の心にあるのである。」
 
 一般に時は、過去無限から現在へ流れ、そして無限の未来へ流れ去るところの無限の流れと考えられている(ベルグソンの考えのよう)。しかし、アウグスティヌスが言ったようにそう考えるべきではなく、現在から考えるべきと西田幾多郎は述べる。

 「時は自己のあるところにある。従って時は無数にある。」
 「カントは、人格は他を認めることによって生じると言ってゐる。自由独立の人格の意味では、甲の人、乙の人は全然別々であるが、私と汝とあって人格は成り立つ。人格は社会的である。」

 各人のもつ無数の時が、人格と人格の結合によって時が結びつき、これにより「絶対の時」が生じる。各人の時の結合が「世界」であり、この世界が流れる。すべてのものを包んだコスモロジカルな、現在の過去・現在の現在・現在の未来が1つになり、「永遠の現在」となる。吾々の人格は各々の瞬間に時を超えて永遠なものにふれることができる。因果の鉄則による時の流れの中に吾々は不自由に生まれかつ死ぬのではない、と述べる。
 世界が過去から未来へ流れるのは「自然時」の世界であり、「行動」の世界は創造する意味で「文化」の世界であり、「目的時」の世界である。

 「物質と精神と二つあるものと考えるが、そうではない、1つのものから考えられる。」
 「物の原因結果については二種類の考へ方がある。前者は過去から未来への方向により考へられ、これと平行して原因があれば結果があると考へる。
  もう1つの考へ方は、後にあるものが始にあると考へる。(中略)目的をもって行動する場合であって、目的的な因果である。時を超えた働きであるが、時を超えると時を教育することが出来るのであって、教育の目的もここにある。即ち文化を建設することにあるのである。」

 そのほか本書にある「日本文化の問題」(1938年)、「人格について」(1932年)、「伝統主義に就て」(1934年)、「現今の理想主義」(1916年)を読んだが、どれもよく似た調子のものとして読んだ。このうち「現今の理想主義」においては、西田幾多郎は「理想主義」というのは主観主義の一つであり、「我」を「理想的自我即ち現想」として考え、世界は大なる自我の発展であるとする種類の考えだと述べる。カント、フィヒテ、ヘーゲルなどがこの系譜であると言う。

(2015.7月下旬 記)