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イッセイエッセイ

1050 号 言葉(物語か小説か)

2015年07月19日(日)

 日経新聞・文化欄の紙面(7月12日)に、言語学者・井上史雄氏の『現代ことば考』のコラムが掲載されていた。そこには「日本語の人気度は世界6位」であるとし、英・中・仏・独・西に次いでおり、その後に露、葡が続くと書かれていた。語学教育と目先の景気との関係、また言語学習と各言語の経済価値などについても言及されていた。
 日本人は外国語を学ぶことにかけてほとんど一辺倒であり、そのことに要しているわれわれのエネルギーや資金と、逆にこれからは外国人に日本語を教えることに対しもっと力を入れて、収入(価値)を図ることとのバランスをとる必要があるというヒントを得る。これは国語の先生達のフロンティア分野かもしれぬ。
 同面の文化欄に、菅啓次郎教授(明大、比較文学者)が『異郷としての東京』を書いておられる。
「人はどんな場所を訪れても、その地点の来歴を知らなければ何も思わない。土地の光と風を感じても、言葉による解説がなければ、けっして知り得ない層がある。」という文学的な観察である。
 これは観光戦略に役立ちそうな物の見方ではないか。
 さらに同日同紙の読書欄には、作家・奥泉光の「半歩遅れの読書術」による「旧約聖書の凄み―物語を批判、批評する姿勢」という随筆が載っている。
「ようやく旧約聖書を書いた人々の精神の形に眼が向くようになり、旧約聖書がきわめて『小説的』であると思うようになった。ここで『小説的』というのは、『物語的』とは違うので、むしろ物語を批評、批判するありかたのことだ。エジプト、メソポタミアの二大文明圏の狭間にあって、古代イスラエルは両者の放つ強烈な『物語』の磁場に絶えずさらされ、そこから批評的に脱し距離をとるべく奮闘したところに、旧約の人々の精神の燃焼はあったといえるだろう。」そして、創世記から詩篇までの意味が述べられている。
 そして、この考え方も観光やブランド戦略に関係する。ストーリ性をもった地域商品を作れ、とよく言われる。しかしそれが大都市や大観光地の既に出来上ったストーリに対し、小ストーリや独自のストーリを作りだすという意味なのかどうか。それにしてもこの『小説的』と言う意味は何なのか………(ここで文章が先に進まなくなってそのままになった)。

(2015.7.12 記)

 そして昨晩の7月17日金曜日は、梅雨の台風11号が近づいてきた。中四国の被害の様子がどうなのかTVをみていた。そうしたところ、Eテレの「文学白熱教室」でカズオ・イシグロのトーク番組を聴くことになった。もう最後の15分ほどだけだったが、イシグロ氏は日本人ではあっても英国で育ち教育をうけた小説家であり、その英語はやや内省的かつ訥々と聞える。受講者は熱心に聞き入っていた。
 そこでは小説の意味が何かを語っていた。自分はなぜ小説を書くのか、なぜ他人の小説を読むのか、という根本的な結論の部分の話しであった。
 小説は議論をするためのものではない、知的満足をするためのものでもない、それは特定の状況における「感情」ないし、体験としての「心情」を伝えるものである、と語る。小説は「事実」を伝えるノンフィクションではない。小説は、そこに重要な「真実」をふくむものである。そして事実とはちがう「真実」を求めるのは人間の本能であるから、というような説明であった。カズオ・イシグロは小説のことを『物語』とも表現していたところがあるが、これは上述の読書術欄にいう『物語的』とは言葉の使い方が違うのであって『小説的』という意味に通じるであろう。
 さてカズオ・イシグロの小説論の「重要な真実」とは文学上の主張であるにしても、これを非文学の世界に翻訳ないし転用することは可能かどうか。ストーリを超えてある感情を人々の心に喚起させうるものとは何であろうか。ある土地と文学との関係、日本伝統の「歌枕」の意味、小説の舞台と登場人物の心情など………。(767号参照)

(2015.7.18 記)