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イッセイエッセイ

1048号 芝居の言葉

2015年07月14日(火)

 いまから450年ばかり前のシェークスピアの時代には、芝居や演劇は「聞く」つまりhear a
playと表現されていたということだ。現代ではそういう表現はとらず、see a play , go to(see)a play , go to the theaterということになる。つまり昔は、観劇として見るものではなく、芝居として聞くものであったということである。(NHKラジオ第2。前沢浩子(獨協大学教授)の「文学の世界 生誕450年シェークスピアと名優たち」シリーズから)
 日本の歌舞伎や浄瑠璃でも、芝居の役者よりも舞台の上手上段の太夫座で語る義太夫が、一番有力で人気があったという話を聞いたことがある。ともかくもドラマの世界では、もともと言葉が極めて大きな役割をもっていたことがわかるのである。そして現代において逆に特に顕著であるが、あらゆる芸能が音声や言葉よりも視覚化してきているということだ。
 シェークスピアが文学史上において偉大であるのは、劇作家としての言葉の質量の力もさることながら、それまで騎士と貴紳の夫人との間の叶わぬ忍ぶ恋の古典劇であったものを、現代の我々にも通じるような恋愛劇に転換したところにあるようだ。
 わが福井の生んだ近松門左衛門の浄瑠璃の男女の悲劇は、わが国のその時代の制約もあって心中に終らざるをえないわけで十分に開けたものには展開しなかった。しかし、作家も観客もほとんど現代的な扉が聞けそうな直前の場所にまでは至っていたのである。そのところに近松の功績があり、一方で現代の我々の心に訴えるところがやや足りない点があるのである。

(2015.7.5 記)