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イッセイエッセイ

1038号 村の風景今昔(花粉症、鳥獣害、子供の数)

2015年04月30日(木)

 かねがね知りたいと思っていたことがある。それは日頃通ることの多い道路や鉄道などから遠望できる福井の美しい農村の景観が、歴史的にどのようにして出き上ったのかという関心と興味である。
 これらの農村風景が高度成長期の前はどうだったのか、戦前の地主・小作制の下での地域の状況は、さらに遡って江戸期(近世)との連続性はどの点にあるか等。言いかえれば、昔も今も変わらずに残っている大事な部分は何かというような方面の関心である。
 今回の選挙では、平野部から山際また山間部と県内の村々を文字どおり内側に入り込み、家並の様子や田畑あるいは住民の気風など、自分なりに感じることになった。その上で、これらの集落がどのように作られたのか、地名の由来、村ごとの建物の大小や屋敷の配置のちがい、周辺の裏山や水路との関係などについて、ふたたび疑問を深くすることになったのである。
 最近、岩波新書からシリーズ日本近代史(第2巻)「村 
百姓たちの近世」(水本邦彦著 2015年2月)という本が出版された。選挙も終り、改めていま述べたような関心から一読することになった。自分のこうした疑問に直接答えを与えてくれるものではなかったが、日本の村落の成り立ちの歴史的背景について概略がわかり、やや自分なりに目の前の風景について想像をめぐらす助けがえられた。
 近世の「村」や「百姓」といっても、戦国から江戸後期までの滋賀県(湖東の南部地域)のいくつかの村落を主に対象としており、絵図や古文書をもとに近世の村がどのように形成され、変遷していったかを明らかにしている。そこでは村の生産・生活の状況、コミュニティの多層的な構造、農村支配の政治的変化といった問題が対象となっている。
 江戸期に来日した外国人の観察をもとに、当時の日本の原風景を永遠に失われた古き良きものとして描いた書物に渡辺京二著「逝きし世の面影」があるが(863号参照)、この「村」という本は、時間と場所に若干のずれはあるにせよ、ほぼ同時代の村落をフィールドワーク的に内側から分析、研究したものであるという見方ができるのではないかと思った。
 さらに江戸期をえて明治から現代に至る100年余りの間に、農業を生業とした近世社会の暮らしや風景は、さらに急速に私たちの目から後退し消滅して行くのであるが、その間の劇的な変化あるいは現代との関係については本書の対象ではない。
 さてこの本の冒頭で、オランダ商館付きの医師として来日したスウェーデン人のツュンベリー(1743-1828年)の「江戸参府随行記」の描く農村風景が、「逝きし世の面影」と同様に引用されている。
 「世界中にこの国ほど、より丹念に肥料を集めている国はない。言うなればこの点に関して、利用できるものはすべて利用するのである。家畜は1年中農家に飼われているが、その糞はことごとく農場で利用される。またどの街道でも、旅用に使われている馬の後には老人と子供がおり、棒の先につけた貝殼で馬の糞を拾い上げ、籠に入れて家に持ち帰っている。ヨーロッパの畑では滅多に利用しない尿さえも、ここでは大きな壺に丹念に集められる」
 このように、ツュンベリーが当時の日本の農業と農民の活動に高い評価を与えている一方で、この植物学者でもあった医師が暑熱下で強い悪臭を発する糞尿には耐えがたいものを感じ、そこから生じる蒸気(アンモニア)の刺激で大勢の人々、とくに高齢者は目を真っ赤にして目やにを出していると記録していることも、本書で紹介されている。
 蕉門の連句(「むめがゝに」の巻)に、次のような一句があると記憶するが、そうした事情の下にあった農村風景を描いているのではないかと思える。
  東風こちかぜにこへのいきれを吹きまはし
 (芭蕉)
   (東風の吹くたびに、堆肥のまかれた畑土がむんむんするように臭う)

 この十年末、日本は花粉症の国になっている。前回の選挙ではあまり見なかった現象だが、今回は各地域で集まった人達の多くが、とくに女性達のマスク姿が目立ったということである。いつの時代にもさまざまな健康問題があるのであって、時代を離れて非なる似たものが存在するものだと感心する。
 本書で強調していることだが、近世の農村では里山に育つ草木を田の肥料(草肥農業)にしていたため、ほとんどの里山が草山化していたという記録が残っており、土砂流出が発生するなど、杉林の多い現代とは異なった里山風景ができ上っていたことを知る。
 近世の農民達は絶えず山に出入りをして柴や草を刈り、山に木がなくなり草山になっていたはずなのに、村々の記録では鳥獣害の被害を訴えている。鳥獣害の発生は人々が里山に入る多少とは無関係だったのであろうか。残されている村の古い帳簿には、猪や鹿の獣害から作物を守るため村が負担して猟師を雇っている話(本書111頁)、また、ある村の願書には、猪鹿の制動(制圧)に難儀するので早稲田の検見(検分)を早くして欲しいという話も出ている(119頁)。なぜかまた当今の事情と似ているのである。
 蕉門の連句には鳥獣害や災害、年貢に係わる話しもでてくる。
  たぬきををど篠張しのはりの弓
 (史邦、「鳶の羽も」の巻)
   (畠を荒す狸を威かすための小竹で作った弾弓が仕掛けてある)

  家のながれたあとを見にゆく (利牛りぎゅう、「空豆の」の巻)
   (洪水で押し流されてしまった家屋の跡を見に出かけた)

  未進みしんたかのはてぬ算用さんよう (芭蕉、「むめがゝに」の巻)
   (村役人などが、庄屋か寺へ集って、未納の年貢の計算に疲れ果てている)

 また今日(26日)の毎日新聞「今週の本棚」に、『唱歌「ふるさと」の生態学』(高槻成紀著 ヤマケイ新書)を読んでの池内紀氏の書評が出ている。追いしウサギは、なぜいなくなったのか?
 著者の生態学者の見解では、屋根葺きや飼料用としての山の茅場(ススキ、ヨシの茂る平原)が、ある時期から不要になったためと言う。したがって1960年代のそれまではウサギとネズミの被害が大であったが、1980年代以後は樹木が里山に侵入して、シカやイノシシが里へ出没するようになったという見立てである。しかし、上述のように江戸期にも鹿、猪、狸などの獣害があったと記録されている。里山がどうであろうと何かの被害はいつもあるということか。
 また江戸時代の田舎では、農家は子沢山なのかと想像していたが、この本からわかる限り、18世紀前半の甲賀郡(現在の甲賀市水口町、平成16年合併後)の村の明細帳を例にとると、酒人村では家101軒に対し人口378人、泉村153軒(797人)、氏河原村108軒(500人)、東内貴村43軒(209人)、北内貴村60軒(276人)というように、平均4~5人の家族構成にすぎない(本書8~9頁)。子供が多くなったのはそれから後のことなのだろうか。
 著者は村々の石高や税金には関心を向けているが、人口問題については論じていない。
  わが祈り明け方の星はらむべく
 (荷兮かけい、「狂句こがらしの」の巻)
   (どうかわれに子を孕ませたまえ、と暁の明星に向って祈っている)

  芥子けしあまの小坊こぼうまじりにうちむれて (荷兮、「霜月や」の巻)
   (おけし頭の女の子や、坊主頭の男の子たちが、入混じって遊んでいる)

  にくまれていらぬをどりきもいり (珍硯ちんせき、「木のもとに」の巻)
   (村人や隣近所からいくら悪口を言われても、若い者をそそのかして、おせっかいにも盆踊りの世話を焼くことだ)

  となりへも知らせずよめをつれて来て (野坡やば、「むめがゝに」の巻)
   (隣へも知らせないで、ごく内輪だけで、こっそり嫁を迎えたという貧農などのさま)

  満作まんさく中稲なかてあげて喰祭くふまつり (支考、「秋ちかき」の巻)
   (今年は豊年満作、中稲の収穫もすっかり終えて、賑やかな村の刈上かりあげの祭が、いまもたけなわ)

 また徳川幕府は、約300年の間に全国の村を対象に4回にわたる村高(村落ごとの米の石数)の調査を実施しているということである。最後の天保年間の調査(天保郷帳1834年)が資料として出ており、これによれば、米の生産高では北陸三県ほとんど差がなく、富山・福井・石川の順になっており、村の数では福井がかなり多くなっている(本書29頁)。
 若狭の国255村(村数)、91,018石(総石高)、357石(平均村高)。越前の国1,533村、総石高689,304石、平均450石。
 ちなみに、加賀768村、483,665石、630石。能登666村、275,369石、413石。越中1,376村、808,008石、587石。・・・全国(琉球ふくむ)では63,562村、総石高30,559,877石、平均村高481石。

(2015.4.26 記)