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イッセイエッセイ

1028号 人口に就て、又(前号のつづき)

2015年02月20日(金)

 次に、「湛山回想」からおよそ十年後、評論家・吉田健一の書いた新聞連載の随筆の中から「人込み」という文章を読むと、また別の感慨をいだくことになる。
 一頁あまりの読み物であるから全文を引用した方が分かりやすいのだが、そうもゆかないので多少真意がつかみにくくなるけれども都合をつけて引用する。
 「日本人が日本に就て、日本人にも、外国人にも始終、質問してゐるのは有名な話である。それでこの間も、さういふ日本人の一人に日本の國、或は日本人に對して何か注文がないかと聞かれて、差し當り、もし人口を半分に減らすことが出来たらといふことしか思ひ付かなかった。どの學校も、そこにゐる學生の數が今の半分、會社も社員が半分、入學や入社を望むものも半分になったら、或はもっと手っ取り早く言って、込んだ電車に乘ってゐる時、乘客が急に半分ゐなくなったらと考へるならば、さうして人口が減るといふのがどんなことか、少しは察しが付く。勿論、さうすると、學校その他の人員が凡て平等に半分になるといふことはないだろうが、先づそれに近いことが方々で起る譯で、想像して見ただけでも幾らか氣が樂になる。何も、面積が大體同じで人口が丁度、日本の半分しかない今日の英國のやうな國のことを思はなくても、明治以前のまだ衛生施設の發達が人口を増加してなかった時代の日本のことを考へればいいので、平安期の文化も、桃山時代の美術も、芭蕉の俳句も、吉原遊郭の隆盛も、或は明治維新自体がさういう今日の半分しか人間がゐない日本が背景だったのは羨しいことでもあり、頼もしい感じもする。」
 吉田健一の文章は、どれも相手に肩すかしを与えて考えさせようとしているらしき処がある。
 電車に旨く乗れるか、旅館に何時いっても泊れるか、次の住宅をどう見付けるかなど、昭和30年代頃に日常的に心配することが多かった社会問題も、人口減になれば一挙に無くなるのだというようなこと(あまり巧い要約ではない)を例にあげている。この時代はもう戦後ではなくなっているので、食料や田圃などは文面上は関心事として書かれていない。
 ちなみに明治5年(1872)頃の日本の推計人口は約3,500万人、昭和20年(1945)は7,000万人強、昭和35年(1960)は9,500万人弱の人口にまで増えている。
 「自分が置かれてゐる状態に就て、これが今直ぐにどうにか出來るものではない限り、文句を言ふことは許されない。これが自分の環境であることを認めてこれに堪へ、又、對處する他ないか、その根本の原因がどこにあるかを考へて、それかそれ以外のことにないのを知るのは、確かに息抜きになる。つまり、これは外国ではとか、日本人といふものはとかいふ問題ではなくて、ただ少しばかり皆が息苦しい思ひをさせられてゐるのである。日本の人口増加が止ったといふので、英國の友達が喜んで手紙を寄越してくれた。そのうち又もとの空いた日本になるかもしれない。」
(吉田健一著作集第8巻「頭の洗濯」所収の「人込み」から 212-213頁 昭和54年集英社)
 そこで吉田健一のこの随筆をもとにして、例えば「人口を半分に減らすことが出来たら」を「人口をいまのままで維持することが出来たら」と読み替えたら、全体はどんな文脈になるだろうか。あるいは更に逆説的になるが「人口が将来半分に減る見込なので」と読み替えたらどうなるであろうか。
 学校や会社は成り立つのだろうか。電車や道路はそして料金は。文化や芸術は。「根本の原因」、「息苦しい思ひ」はどう変るか。「もとの空いた日本」は、これからであればどういう姿になるのか。そして文中には書かれていないが首都の災害は・・・。
 「人氣がなくて日が差しているだけの町中の道路といふのも、子供の頃の記憶が僅かに殘ってゐるばかりで、これも餘り遠い昔のことである爲に、確かにさういふことがあったかどうかも今でははっきり言へなくなってゐる」
 こうした類似の気分、つまり夏の日盛りの中に福井市街の通りがガランとしていた風景を自分もかすかに記憶している。先日、県庁の若い人達と人口問題を論じていたときに、こうした昔の福井の街中の記憶について話したことがある。しかし、駅前の人達からは昔はもっと賑わっていたようなことを言われる。これから人口が減る地方の状態は、住んでいる人達にどういう印象や影響を本当に与えるものなのだろうか。
 街がさびれながらも混んでいるような矛盾した風景というのは、人口問題をせっかちに論じること同様に、つまらない将来の姿であるかもしれぬ。

(2015.2月14日 記)