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イッセイエッセイ

1024号 聞くことから話すことへ

2015年02月11日(水)

 (1)幼児が、親の言葉や周りから語りかける言語に反応してそれを聞き分け、そのことが子どもの知能の発達そのものと言えるのであろうが、それらの事をくりかえし反復して日本語としての言葉にするまでには1年の歳月ではやや足らない。しかし三歳とももうなれば、いくつと問われて指を三本で示すことができ、そのことを言葉にも出して応えるであろう。
 それでは大人が外国語(たとえば英語)をラジオなどで毎日三十分ないし一時間ほど聴き続けて、すでに習ったことのある語彙力とさらに文法の知識も使って試行錯誤をしながら、どうにか学習番組やニュースの英語などを聞き分けて理解できるには、体験からみて5~6年の時間の経過を要する。その時期になると、英語の構造や単語にも馴れてくるので文章を読むことも早くなり、後から前へと行き来して読むことが少なくなるのである。
 しかし映画の会話や音楽の歌詞などは、なおこの順番で学習の難しさが残ったままとなり、依然として断片的にわかる程度にとどまるのである。この壁も、おそらく教材として効果のある代表的な映画を英文シナリオと日本語付きで何度か繰り返して聞き、十本ほどを見終れば映画の聴き取りに長足の進歩を遂げると思われる(実際はそこまでやらないで終る)。音楽も五十枚ほどCDを歌詞つきで聞くことにより、騒音ともラップともつかぬ歌詞であっても、英語の言葉使いの特徴をのみこんで、他の歌を聴いても少しは解りやすくなると想像する。もっとも、日本語の歌も何んだかわからないものが多いのだからあまり期待はしない方がよいかもしれぬ。

 (2)ここから本題に戻る。外国語(英語)を5~6年でも継続的に聴き続けると、そこに慣れができてある時から聴いているセンテンスに注意が向きはじめる(余裕がでるということか)。こういう意味のことはこういう表現を使うかといった、いわば英語の聴き方から話し方の方面に関心が自然に移ることを自覚する。
 しかし、聴くことと喋ることとは大ちがい、雲泥の差がある。聴いてわかる文章は程度としては何んのことはないのであるが、これをいざ話すことになると再現は容易ではない。しかし聴くことも5~6年するといま述べたように、その難しい再現の方に関心が生まれるのである。動詞と名詞とのつながり、よく使われる単語の組み合わせなど、言い方を能動的に捉える気持が起き、聴いてこれを再現しようという状態になるのである。
 このことは、幼児が生まれてから1~2年かけて耳や目から入ってきた情報を言語の形としてつかみ、自分から言葉に出そうとする幼時体験とほとんど類似していると想像する。言語の学習には自然の順番があるのであって、ある段階が飽和状態にならなければ、次の段階に意欲が流れ出ないのではないかと思うのである。したがって外国語の上達は、理屈の学習のみならず、詰め込み的で量的な学習がぜひとも必要となるのではないかと思える。

 (3)母国語の場合は生まれて数年で子供は乗り越えてゆく。大人の外国語の場合は、ある程度の語彙と文法構造の作為的な習得がまず前提となる。それが終れば直ちに、できるだけ多くの文章をまず読まないと始まらない。その上で聞くこともしなければ到底その目標には届かない。そう考えた場合、現在の中学校の英語授業などは全く密度が低すぎるのであって、三年間でいったい何行の文章が生徒の視覚を刺激していくのであろうか、現状の分量では絵本も童話さえもおぼつかないことになる。いわんや高校の受験英語においてをやである。児童・生徒を言語の小児状態にいつまでも取り残している現実こそ、英語教育の欠陥であり、それゆえ改善が可能な大フロンティアといえるのではないか。

(2015.2.8 記)