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1023号 忠臣大膳

2015年02月11日(水)

 鷗外の「栗山大膳」という歴史小説の筋はあらかた忘れたが、現代人のわれわれ(自分自身といってもよい)が読んだときに、人物の言動や筋立てに不可解なところがあったという印象をもつ。そうした感覚は同じように「佐橋甚五郎」、「大塩平八郎」などもそうであった。「阿部一族」なども全体としてはほとんどわかる小説であるが、隣家の朋友の態度や主従の言動など一部わかりにくいところがある。そういうところは「じいさんばあさん」や「安井夫人」などにも多少ある。
 誰にでも納得いくように小説を書かなかったのが鷗外のやり方かもしれない。それ以上に、江戸後期の武家の残影のようなものに馴じんでいた鷗外と、知るよしもないわれわれ読者とのギャップが理解をさまたげているからかもしれない。そして小説としての良さはむしろその不可解な点にある。つまり過去の時代の雰囲気といったものは、想像して書けないこともないだろうが、現代小説の見方になってしまって不可解さが残らないことになる。時代物の小説が数多く出版され、読んでみても面白くはあっても、現代からみた義理人情や風俗が動いているにすぎない。
 2月4日(2015年)の日本経済新聞の文化欄には、「黒田騒動 忠臣の後日譚」-主君を訴え藩守った栗山大膳 流謫先、盛岡での日々追う-と題する小野重喜氏(福岡県朝倉市の元中学校長)の、大膳のその後の事や子孫について各地を訪ね歩いて調べた郷土史家的な話しが載っている(「栗山大膳 黒田騒動その後」花乱社)。人物の事跡をあちこち訪ね歩いてたどる手法は鷗外の史伝に似る。小説に書かれているそれから後の話である。
 これによると、大膳は南部藩預かり(1633年)となり、150人扶持の俸禄が与えられ、三里四方の自由行動が認められたという。盛岡では再婚をしており、その子孫は妻の姓の内山を名乗ったが、明治3年には栗山姓に戻ったという。交流した人物として方長老(対馬藩の高僧)、林羅山とは文通。長姉の嫁ぎ先である三奈木黒田家(明治まで黒田藩家老)、三姉の堀家、妹の中間家などの調査がなされている。なお大膳その人のことや子供たちについては資料により異説があるようだ。福本日南(史論家、ジャーナリスト、政治家)は、大膳を「筑前人士中三百年の第一人者」と評した著作があるという。

(2015.2.8 記)