西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

1020号 吉田健三・茂・健一の三代

2015年01月27日(火)

 去年の11月の終りごろから長谷川郁夫著「吉田健一」(新潮社 2014年9月)を読みはじめ、休んだり読んだりしながら今晩(1月24日)ようやく646頁を読み終った。この評伝は著者への思い入れの強い本である。伝記の書き方のタイプとしては去年秋に読んだ「アダム・スミスとその時代」(1006号参照)とは正反対の接近法であり、詳細にエピソードを交えながら綿密に描く方法をとっている。この吉田健一という特異な評論家の全体像、そして同時代の人々との交遊、吉田茂との父子関係などが1つ1つの作品の引用と見聞した記憶とともに語られる。なかなか立派な労作といえる(こういう雑な表現を便宜とっておく)。本書を素人的に評論するほどのエネルギーが当面はないので、詳しいことは省くより仕方ない。読んだという都合のために、本筋とは離れ気味の脈絡のないことを気ままに抜き出す。

 「父を語る」(昭和31年)「防衛というものは、今は一国ではいくら金があっても出来るものではない」、「だから頭を働かして、集団防衛なり何なりしていくより方法はないのだ。景気のいい再軍備論などは実におかしな・・・・話で、夢みたいなものだ。極端にいえば、バカといわざるを得ない」(410頁)

 (注)これは吉田茂の再軍備否定のなまの言が書かれていたので引用したまで。

 (これは筆者・長谷川氏の文章)「講談社倶楽部」編集部にいた大村彦次郎は、「中間小説はどんどん膨張して、いろんな肌合いの作家を吸収していく。風俗小説も推理小説も時代小説もいっしょくたにして、中間小説と総称されるようになった。当初、娯楽家庭雑誌を標榜していた『オール讀物』もいつもまにか『小説新潮』と並んで、中間小説の代表的雑誌といわれるようになっていた」と回想する。(469頁)

 (注)大村氏からは「ふるさと文学館」の助言を得ている。

 (読売新聞・大衆文学時評、昭和36年)「水上勉氏が日本の推理小説界の新風であるなどと言ふ必要はない。氏はこの一作によって世界の優れた小説家達の仲間入りをしてゐる」というのだった。水上勉が「雁の寺」によって直木賞を受賞するのはこれから三ヶ月後のことである。(472頁)

 (注)上記は吉田健一の書評から引用されている部分であるが、水上勉を見出したのは吉田健一なのである。

 (単なる地名)「2月恒例となった金沢行きで、二十三日の夜東京駅を発った。……東京・八重洲口構内のレストランで待ち合わせて、まずビール。八時過ぎの寝台急行・能登に乗り込んで、すぐにシェリー。……翌朝、ビールを買いに「お供」の二人が敦賀駅のプラットホームを走ると、雪が舞っていた。九時過ぎ金沢駅到着。……」(496頁)

 (注)福井は通過されてしまっているので、面白く思って抜いた。

 (同じ)「若狭・一滴文庫のガラスケースに納められたその手紙を、吉田さんが亡くなって何年後のことだろうか、私は水上さんに示されたことがあった。」(515頁)

 (注)水上勉が吉田健一を敬愛していたエピソードの例である。

 (第16章「われとともに老いよ」昭和50年「時間」)「時間が人間を老いさせるのではなくその老いる人間も老いた人間も時間なのである」(617頁)

 そして一番最初(第二章メリ・イングランド)に戻って福井県に関係するところ。
 「吉田茂は明治十一年、土佐自由党の志士、竹内綱たけのうちつなの五男として東京に生まれ、三歳のときに実父の盟友である横浜市南太田町の吉田健三の養子となった。吉田健三は旧越前福井藩士、脱藩して大阪で医学、長崎で英学を学び、のち英国軍艦で密航、二年間をヨーロッパやアメリカに遊学して過ごす。1868年に帰国後、一時、新潟に身を寄せたのち東京で英学塾を開き、明治五年、東京で最初の日刊紙となる「東京日日新聞」の創業に関わり、海外ニュースを担当した。同時に、開港場・横浜でジャーディン・マジソン商会横浜支店(英一番館)の通事となり、やがてその支配人を務める。同商会は、明治新政府を交渉相手とする英国資本の巨大商社。さらに、醤油醸造業や日本最初の電灯会社の設立に関わるなど、文明開化・横浜を代表する実業家の一人となり、地域振興に貢献した。ビールを最初に外国から取り寄せたのも吉田健三とされる。竹内綱との交友は、「東京日日新聞」が国会開設を主張して、自由民権運動を支援したことに由る。養母は士子ことこ、江戸後期の儒者・佐藤一斎の孫にあたる。
 明治二十二年十二月、健三は四十歳で急逝、茂は十一歳で家督を継ぐが、遺産は五十万円といわれる莫大なものであった」(33~34頁)

(2015.1月24日 記)