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イッセイエッセイ

1016号 目立たないこと

2015年01月12日(月)

 人間の感覚とくに視覚などは、一度に二つのものに向けることはできない。
 シャーロック・ホームズの英国テレビ・シリーズ。映画がまずはじまると、ロンドン・ベイカー街を想像しての風景が映し出される。街角を走る二頭立馬車、新聞の号外売り、これを買う山高帽の紳士二人、ガラス容器店のショウ・ウィンドー、店員とこれを眺めるいたずら小僧たち、追い払うマント姿の警察官。こうした雑沓を部屋の窓から見下すホームズの横顔がクローズショットされるという映像の展開である。
 十数作かのTV映画の連作になっており、始まる時はいつも同じ画面であるので、時々ためしに普段には眼が行かない背景の通行人の動きや店舗の様子に注意を向けてみる。そうすると、このTV映画が製作に手を抜かず細部に金をかけていることがよくわかる。しかしふつうは視覚が強い刺激を受ける馬車の動きなどに注目が行き、いま述べたような丁寧に作られた他のものの細かい動きは、ディテールとして背景にしりぞくことになる。
 この一週間あまりの車中では、「赤毛のアン」のラジオ収録しておいたものを聴いている(朗読は市原悦子)。耳で聴く印象は本を読むのとは違う。ラジオで朗読を聴くことは、活字を見ての読書時の印象よりも表現がよく心に残ることに気づく。つまりTVも活字もともに映像としては感覚的に強い刺激を受けるものの、人間の眼や頭の方で選択的に取捨してしまうのだ。朗読の場合の音声は、読書のように眼が自然と飛ばして読むことがないので、ほとんどすべての言葉が情報として受け取られ、小説の文章のすべてに集中する結果になるからであろう。
 また目と耳の感覚としての差も程度の問題があり、音声だって交響曲のような場合には重要なモチーフのメロディに関心が向けられ、通底の音響は背景にしりぞくことになる。
 とかく人間の感覚は、より大きいもの、よく動くもの、新しいもの等に次々ととらえられてしまう。
 ここから、他より目立つということの本当の難しさ、目立ちたがりたいための精神のあり方が問題となる。<続>

(2014.12.25 記)