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イッセイエッセイ

1012号 もっと旅をしよう(国の光を見るとは)

2014年12月21日(日)

 われわれが知らぬ土地を旅したときに、その土地の人たちが住んでいる自分たちの町を自慢してくれた方が快いものなのか、それとも謙遜したもてなしを受ける方が好ましいのか、一概には言えない。最近の一般的な風潮としては、ホスピタリティが大事としてみずからを積極的に宣伝し、観光的なサービスを尽す方が望ましいという考え方になっている。
 このもてなしについて、やや立ち入って考えてみたい。
 まず、おもてなしは、相手への配慮と親切から生じるべきものであるから、出来るだけモノよりもヒトを通じて行われるように感じられるのが好ましい。たとえばアジアの国々の言語がたくさん並んだ看板よりも、これらの言葉を簡単でもよいので交換できる人たちがたくさんいる方が、もてなしとしては奥が深いと言える。
 さらに冒頭の所自慢や所誉めの話に戻る。
 自分の経験でもそうだが、とくに福井のような住みやすい土地柄なら尚のこと、人は住めば都なのである。日本ほどよい国はない、福井ほどよい所はないというのが、旅行から帰ってホッとした素直な感想になるのである。
 観光は国の光を観ると言われる。しかし実は他国の光を観るのではなく、正しくは我が住む土地の光を観るためのものであると考えるべきである。互いに自分の土地を愛するために観光をしているというのが、実際の出来事なのである。そこでむしろ大事なことは、われわれ福井のことをPRするだけではなく、来訪者の住む土地とこの福井とのつながりをできるだけ発見して相手に伝える配慮が必要である。つながりが見つからなければ、彼らの地を旅行したときの感想を一言でもよいのである。
 それ故、わが福井人は日本や地球をもっと旅しなければならないのである。県内各地だって観光しなければならない、詳しく知らなければならないのである。このことがおもてなしの小学校になると思うのである。

(2014.12.6 初雪の朝と夕の記)

 こんな事をきのう書いたのだが、今朝の日曜の毎日新聞「時代の風」に、西水美恵子さんという元世界銀行副総裁が、「海外からの観光客」―『無比の体験』提供必要、という文章を寄せている。
 海外からの訪日旅行客が増えているのはうれしい傾向だが、自分の知人たちの「バカンス人種」が、申し合わせたように日本の旅行は「1回で結構」と言われたと記す。日本が嫌われた理由として二つあり、1つは言語の壁からくる情報不足であり、これは出発前からの壁ともなっている。旅行案内書やインターネットからの役立つ情報が京都・奈良など名高い観光地しかないので、好みの他の目的地を判断できないということである。もう1つは、日本の旅行文化そのものの問題であって、仕方なく旅行会社を使うと日本流の物見遊山を強いられ疲れ果てる。大ホテルのサービスはわるくなくとも、「日本だという感動がない」、「和食を味わう機会も少ない」と嘆くようだ。
 そこで限られたネット情報を、外国の知人にたとえば飛騨の丸八旅館を紹介したら「ここならまた行く!」となった。自分も英国人の夫と全国各地を旅しており定宿がある。古民家や古い建物を生かし、地産池消に徹し、女将と亭主のチームワークにすぐれた宿に泊る(丹波の「集落丸山」、熊本市の湧泉の宿・藻の花、別府の山田別荘などという例があがっている)。これらの旅館は地球のどこからでもオンライン予約が可能という。
 さて意見としてはその通りだと思うが、この種の旅行は場所と人数が限られるから、これだけのやり方の観光では、観光というものが「世界競争の厳しい部門」、「地域活性化に直結する重要な輸出産業」として、「類あっても比のない観光体験を提供する戦略が要る」という要請には応えられないだろう。

 昨日のエッセイと今日のとを統合するならば、世界に向けて個別的な情報がいること、相手によって観光の内容がちがうのでごちゃ混ぜの思考で観光戦略を作ってはならぬこと、ある程度の量に対応する観光のほか、特別に立派な宿をどう保存したり作ってゆくかという問題があること等々。
 それにしても観光は質と量を一緒にしてしまうと、話がわからなくなってしまう。

(2014.12.7 日曜 記)