最近、江戸や東京における史跡と、わが福井との関係を東京事務所が調べている。
本所松坂町(墨田区)にあったとされる赤穂浪士が討入りした吉良邸について、当時の所在がわかる絵図で現存しているのは「改撰江戸大絵図」(江戸東京博物館所蔵)だけだそうだ。
この吉良邸に隣接して屋敷を有していたのが、旗本の土屋主税邸であり、実はもう一つが越前松平家の家老であった本多孫太郎の邸宅であったことが判明している。
討入りの夜、高提灯を塀の際に掲げたのは土屋主税であると伝えられていて、歌舞伎の見せ場の一つである。その出典は江赤見聞記(こうせきけんもんき)(播磨赤穂浪士の落合与左衛門が書き残したもの)であると言われている。
本多孫太郎(5代藩主松平昌明の家老)も、当夜、外の騒がしさを初めは火事かと思った。火の手が見えなかったので討入りと察し、提灯を掲げお上に届出た、と同じ資料にある。
旗本でないと面白くなかったのか、対応が実務的すぎたのか、なぜかこちらの方は物語性に欠けるようだ。実際には討入りそのものは淡々と実行されたらしいのである。
そこで少し話を劇場的にするためにつけ加える。例の高田馬場仇討で有名な剣客の堀部安兵衛武庸(たけつね)(1670-1703年)、この人の義父である堀部弥兵衛金丸(あきざね)(1627-1703年)は、赤穂義士の最年長者であった。この弥兵衛の妻にあたる人は、越前松平家の家臣であった忠見扶右衛門の妹(ワカという名の女性)であったとされている。どういう縁でそういうことになったのかは物語の世界になる。
いずれにしても越前藩と忠臣蔵とは、実は因縁浅からぬものがあると言えるのである。なお、さらに研究者の調査が深まると面白いだろう。
('06.2.24記)
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今年の十月二十一日に敦賀までJRが快速化(直流化)した。これによって敦賀から京都、大阪、そして終点は播州赤穂の町まで直結することになった。大阪を中心に敦赤はほぼ東西に等距離に位置している。
師走月十四日が討入その日だと伝えられているから語り伝えられて三百年余後の今日に当たる。改めていつの時代にも務めの本分というものは、ほとんど降って湧いたような難題に対し止むにやまれず立ち向うことにあるように思える。
(' 06.12.14記)
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