日記ブログ
 

2008年
●5月
 322号(2008.5.31)
 321号(2008.5.31)
 320号(2008.5.31) 
 
 

321号  話すことについて

 一週間ほど前に、小学校の校長会の集まりにおいて、「演説について」と題し、話をする機会があった。講話の中味と話し手の実際とが一致しない実例となった。その際、以下に記す内容については、話す時間がなく、以前のメモのままの形にしてあったので、ここに掲げる。

(‘08.5.18記)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 人前で話すことはたいへん難しく、また気苦労な点が多い。しかし、福井の子供たちが臆することなく立派なあいさつを述べる場に出会うことがあり、とても頼もしい限りである。
 話し方やスピーチの本はたくさん世の中に出ているが、話すことや演説することの基本に立ち返って、その意味や心構えについて書かれた書物は少ない。
 弁論の伝統をさかのぼると、古代中国では為政者の前で諸家が進言あるいは提案をする形式が主である。西洋ではギリシア・ローマ以来、大衆や陪審員など「市民諸君」に向っての演説の形式が一般である。そして、こちらの方が現代の政治方式につながっている。
 また東西問わず、対話形式の古典は残されているが、中国の方は師が弟子に述べる形をとるものが多い。
日本は明治以降の今日まで、演説という方法はあるにしても、東アジアの伝統の中で生きてきたので、多人数を前にしての弁論の習慣は一般的でない。明治の初めに福沢諭吉は、これまで日本に伝統のなかった演説を自ら行って、そのスタイルを普及した。
 したがって、弁論の考え方は、ギリシア・ローマの時代の政治家の著作の中に素朴かつ素直に語られていることになる。
 以下はカエサルの時代、紀元前55年にキケロー(106-43年BC)によって書かれた「弁論家について」からの抜粋(「鉤括弧」部分)である。
 傍線以下の小文字は、キケローの別の箇所からの意見や他の著述家(アリストテレス)の主張を参考に、若干の私的感想をつけ加えたものである。
(説得について)
「弁論家の務めは説得を目指して適切に語ることである(1-138)」
―弁論は聴衆に向って自分の言いたいことを「演説する」よりも、「語りかける」よう努める必要がある。どのような内容であれ、頷(うなず)いてもらえるような話し方をしなければならない。
 さらに昔の時代にさかのぼって、ギリシア時代のアリストテレスは、弁論術を「どんな問題でもそれぞれについて可能な説得的なものを見つけ出す能力である」と、説得性を中心に定義している。

(真実、好意、情動について)
「説得を目的とする弁論の原理の全体は、三つの要件に依存しているということになる。すなわち、われわれが弁護しているものが真実であることを立証すること、聴衆がわれわれに好意をもつようにすること、聴衆の心にそれがいかなるものであれ案件が求める情動を吹き込むこと、の三要件である(2-115)」
―アリストテレスの弁論術に言う、言葉(ロゴス)による説得、話者の性格(エトス)による説得、聴衆の感情(パトス)による説得、の三種類の考え方に対応する。
 社会的な出来事がほんとうの真実かどうかは、直接に証明できないものが多い。したがって、言葉や理屈のみならず、話し手に対し聴衆が好意を持つことが説得の前提となる。

(話者について)
「聴衆の心を惹きつけ好意を抱かせるものは、その人の品格であり、その人の功績であり、その人の人生の名聞である(2-182)」
―説得すなわち信頼を生み出す話者の性格について、くわしく述べるものである。アリストテレスの言う、思慮(知性)、徳(倫理性)、善意に相当する。さらに付け加えるならば、声の穏やかさ、言葉遣いの丁寧さ、愛想の良さ、寛大さ、義務感の強さ、人好きのする心性、物を欲しがらない心等好ましい諸々の要素が、聴衆の心を惹きつける性格といえる。

(雄弁の技術の要素について)
「雄弁家とは、主題を聡明に、配列に遺漏なく、詩藻を凝らし、記憶に誤りなく、また口演において威厳を伴いつつ弁ずる者をいう(1-64,2-79)」
―5つの要素、すなわち発想、配列、措辞、記憶、口演(話し方)の能力に相応する。何を語るべきか、どんな順序で語るべきか、いかなる言葉で語るべきかの点を分かっていること、しかもそれを記憶していなければ誰も語ることができないということ、こうした困難ではあるが自明のことを述べている。
 実際面では、忘れないようにということに注意が行きすぎ、どうしても言葉使いが十分でなくなることが多い。ローマ時代の弁論家は、すべてを書いた原稿をもって弁論することは通常なかったようである。多くの訴訟を引き受ける弁論家は、要点とくに最初の部分を書きつけたメモをもつことが多かったらしく、キケローのやり方もそういう習わしだったと伝えられている。

(即興と準備について)
「即席のその場その場の弁論は、考え抜かれ準備の行き届いた弁論に容易に屈する。しかし、この考え抜かれ準備の行き届いた弁論も、かならずや入念細心に推敲された書き物には凌駕されることであろう(1-150)」
「書くという行為を習慣づけた上で弁論の道に進む人は、ある能力を携えてくる。つまり、彼は即席で語っても語り口が書いたものに似ているという印象を与えるものなのである(1-152)」
―即席で語る練習をすることも有益ではあるが、それよりも考える時間を作って、より入念に語る練習をする方がはるかに有益であること、さらにできるだけ多く書くことが最も肝要であること、を述べているのである。

(演説と聴衆の関係について)
「弁論家の言わば舞台は、政治集会の演壇であるように思われるから、我々は自然の理として、いささか華麗な弁論法を持つように促されることになる。というのも、群衆の与えるある種の力は非常に大きいのであって、たとえて云えば縦笛奏者が縦笛なしでは演奏できないように、弁論家もまた、大衆の聴衆なくしては雄弁になれないからである(2-338)」
―演説は聴衆あってのものであり、聞き手の反応に強い影響を受ける。聴衆の雰囲気によっては、予定したことも話せなかったり、また、雄弁も逆に聴衆の心に不快や反感を与えることによって、かえって有形無形の野次を浴びることにもなる。聴衆が予想したよりも数少ない場合、聴衆席が暗くて見えない場合、場内に聴衆のざわめきや人の不規則な動きが生じた場合、関心の異なる学生などに話しかける場合、何人もの話し手が続く場合、聴衆の中に話し手に強い影響力を与える人がいる場合などは、話し手の弁舌を妨げる原因となる。

(ユーモアや笑いについて)
「ユーモアやウイットの類も大いに心地よいもので、しばしば弁論に役立つものである。しかし、他のものはみな学術で伝授できても、これだけは天性のものであって技術などいっさい必要としないのである(2-216)
―演説において、和やかな笑いを生み出すことはなかなか簡単ではない。自然にできるものではなく、少なくとも即興の意図が必要であるが、それだけで可能なものでもない。ユーモアやウイットは話し方によっても生まれ、また動作によっても生まれる。

「滑稽なものの素材はすべて、人々に愛されてもいず、不幸な目に遭ってもいず、また犯した罪ゆえに引っ立てられるべきと思われてもいない、そういった人々の生活の中に求めることができます。そうした素材について適切に非を咎めれば、笑いが引き出されるのです(2-238)
―ユーモアは即席が大事であり、話し方の中で、事柄をめぐっても言葉をめぐっても、笑いは引き起こされる。ある問題の専門家が、もっともよく知悉している事柄について自然に話すとき、自ずとユーモアが生まれやすい。なぜなら、真実を求める姿に、建前と本音、人間のおろかしさ、矛盾も明らかになるからだ。よく知らないことについては、なかなかユーモアは生まれず、皮肉、揶揄に止まるおそれがある。
 新聞朝刊の連載漫画には、事柄の面白さを発揮したものもあるが、言葉による笑いのものが多い。

「威厳に欠けてはおらずおかしみもあるユーモアやウイットの類や当意即妙の言葉,何か寸鉄的な言葉が、大いに役立つ。何が容易であると云っても、群衆の暗鬱な感情がまたしばしば痛切な感情が、適切に簡潔に鋭く陽気に語られた言葉によって和らげられることほどに、容易なものはないからである。(2-340)」
―笑いを誘うことは弁論家のなすべきことの1つであり、朗らかさは誰もが求めるものなので、それを引き起こした人への好意につながるものである、というのがローマ時代の弁論の考え方である。
 ユーモアによって暗さや厳しさを和らげ、多くの言葉によっても解消されないような不快や不機嫌をなくすことができる。
 ある落語家の話しを聞いたことがあるが、客を1分間に数回は笑わせる技術を持っている。これはもともと聴き手の方が、笑いを期待して準備していることにも由来する。登場しただけで最初の笑いが生れることになる。噺家の場合のみならず、一般の演説においてもユーモアやウィットが決して期待されていないのではなく、笑いは勿論のことこれに至らずとも明るさや朗らかさを共感できる機会は見逃すべきではない。

(‘05年頃の記か)