日記ブログ
 

2008年
●4月
 319号(2008.4.22)
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319号  価値と満足

 三年前につくった「福井2030年の姿」(2005年)では、目指すべき社会像として、みんなの価値観から「一人ひとりの価値観」へ、自己的な満足から「分かち合う満足」へ、という方向性を示した。これからの県民の新しい価値や生活の基準を提示した訳である。
 しかし、この「一人ひとりの価値観」と「ともに分かち合う満足」は、一見しては両立しないようにも見える。価値観が一人ひとり違うのに、どうして満足が分かち合えるのか、という問題である。
 価値と満足は互いにどういう関係にあるのか、又これらが同時に成立しうる根拠は果してあるのか。このような問題について、一度根本に立ち帰って考えてみたいと思う。
 価値や満足の問題に関しては、同じような疑問を哲学者達も持っていることが最近わかった。
 さて、ここでは哲学の迷宮に好んで迷いこむ場ではないので、ともかく浅くこの問題を考えてみることにする。そこでまず「価値論」について。
 昔から哲学には、価値一元論と価値多元論の対立があるようだ。まず価値一元論はどうか。歴史をかえりみるとこの考え方は極端に走って、宗教の偏狭、ファシズム、現代の中東問題など、政治の実際では人々や諸民族の上にさまざまな弊害と悲劇をもたらした。
 では価値多元論の方はどうか。どの価値も優劣がないはずと相対主義の上に安住してしまうと、それから先に進まない。全体何の価値観に拠るべきなのか。例えば自由主義(リベラリズム)という価値と価値多元論は両立しうるのだろうか。両者に上位下位の位置関係があるのだろうか。もし、自由主義も多元な価値の一つにすぎないとなると、では一体全体いちばん大事な価値は何か、といった話にどうしても戻る。
 最近出版された「バーリンの自由論」(濱真一郎著 勁草書房2008年)という本は、このような価値や自由の問題を論じている。
 この本に出てくるバーリンという学者が述べるところでは、ロシアの文豪トルストイは、せんじつめれば、価値多元論の肯定と一元論への憧れの二つの大いなる矛盾に悩んで、結局解決できぬまま苦悶のうちに死んだと言うのである。つまり、価値が多元か一元かというのは、人生をまじめに考えるトルストイのような偉人にとっては、納得と解決のし難い問題になってしまうのである。
 バーリンの書いた「ハリネズミと狐―戦争と平和の歴史哲学」(1953年 河合秀和訳1997年岩波文庫)を改めて読んでみると、なるほどトルストイをテーマにしながら、さまざまな価値問題について論じていることがわかるのである。
 くりかえすが、トルストイの実際の人格の中には、「いかなる犠牲を払ってでもすべてのものの根本にまで進もうとする傾向」つまり一元論と、「具体的なもの、経験的なもの、実証可能なものに対するどうしようもない愛着と、抽象的なもの、手に触れられないもの、超自然的なものに対する本能的な不信感」つまり価値多元論とが併存し、このことによる葛藤であり悲劇であると言うのである。
 これをたとえて「トルストイは本来キツネであったが、自分はハリネズミであると信じていた」とある。キツネはたくさんのことを知っている(価値多元論)。ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている(一元論)。つまり日本的に翻訳すれば、カラスの知恵とスズメの一知において、いずれが幸せな生き方なのかの比較ということになろう。
 さて我々の日常世界に戻って、さまざまに有りうる個別価値観が、全体性のある統一した価値観の下に、これが悲劇とならずに円満に転換成立しうる契機はどこにあるのだろうか。
 バーリンの主張として先の自由論の本に紹介されているのだが、人間の「想像力」や「感情移入」の能力が、人間同士の共通の価値観を生み出す役割を果たすことになるのかもしれない。つまりそれは、他者の内面への入り込み、他者が擁護する価値への理解、すなわち人間同士の「コミュニケーション」の可能性ということになるであろう。価値について多元論をとるとしたら、何らかのこうした共通価値(普遍性)の存在、例えば自由は大事だといった原理を前提にしないと、価値論は、最近の言葉にいうダブル・スタンダードの袋小路に入ってしまうであろう。
(‘08.4.3記)

 「満足論」といった名称は哲学にはないが、次にこの問題についてはどうか。
 「満足」という言葉は、厳密な概念ではないが普通の言葉としては、カントの「道徳論」や「実践理性批判」に出てくる。この満足という心の持ち方に関して、論じられている所を参考に次のようなまとめをしてみたい。
 一口に「満足」といっても、さまざまなレベルがある。感覚的なもの(欲求満足)、自己的なもの(自己満足)、知的なもの(知的満足)、道徳的なもの。
 「自己的な満足」から、「ともに分かち合う満足」への発展を考えると、例えばその契機は、他人の幸福(安寧)に対し、「好意」を示すことによる満足や、あるいは見返りを求めず自分の能力に応じて「親切」の義務を尽くすことによる満足、などが挙げられるだろう。
 いかなる人間的な結びつきや行動であっても、人間同士の好意や親切のやりとりが存在しないと、満足の共有、つまり満足の分かち合いは成立しがたいだろう。思いやり、助け合い、ボランティア、寄付などは、この種の好意や親切の具体例となる。
 これが、分かち合う満足感について、哲学者の道徳論を参考にしての自己解釈である。しかし、結局むずかしい話になってしまった。
(‘08.4.4記)